義理の兄夫婦の子どもを育て 流産2回、死産1回

「9か月間は残務整理で(三菱)兵器に残って。それでも工場が解散するまでは良かったですよ。たとえどんなに苦しくても毎日けが人の世話、焼いた人間をバケツに積んでいく仕事でも、そこにおられる間は良かったです。いざ兵器そのものが解散でなくなるってなった時に出ていく所がない」
吉村さんは務めていた工場が解散後、知り合いの家に身を寄せていましたが “いるに堪らなくなった時”に見合いを勧められ、国鉄に勤めていた一つ年下の保さんと23才で結婚しました。

「仮祝言を終えてきてみたら、2日後には戦死した義兄の嫁さんがトラックに荷物を積んで、子どもは置いて実家に帰ってしまった。
まだ1才にもなってない女の子と3つになる男の子。女の子は私が背中にからって(背負って)たけど、母親はさよならも言わずに帰ってしまった。
まさか義兄さんの子供が2人おって、百姓もせんばならんなんて話にも聞いてなかった。あー…意地でもこの子たちを立派に育てるって気持ちだったですね。
私はそういう細々したことを絶対に忘れないんですよ。人間は生きている以上は色んなことがあるけれども、それをいい方にいい方に解釈していかなきゃ一日も暮らされはしませんよ」

「主人はのんべえでしたのでね…ウイスキーよし、焼酎よし、酒よし、何でもよしですから。毎日飲まんば機嫌が悪い。
私は一滴もアルコール ダメなんですよ。相手せんもんだから怒りよったですね。いっぺんくらい相手せろって言われてもできないからね」
「申し訳ないっていう気持ちがあったから、絶対にいくら給料で遊んでまわって3日も4日も帰ってこなくても『千円も持たんぞ』って帰ってくることもあったけど、一言も文句言った事なかですよ。
子ども好きなのに流産したりしてね。絶対できんやったですからね。流産2回、死産1回したとです…ごめんねって」