2024年2月、韓国ソウルにある不動産開発会社ブヨン(富栄)本社の広々とした講堂は、毎年恒例の年頭の訓示を聞こうと集まった従業員で埋め尽くされていた。通常は厳かな雰囲気に包まれるこの場で、創業者のイ・ジュングン氏が突然、驚きの発表を行った。従業員に子どもが生まれた場合、1人当たり1億ウォン(約1060万円)を支給するというのだ。さらに、過去3年間にさかのぼって適用されると付け加えた。

一瞬、場内は静まり返った。誰もが聞き間違いだと思ったのかもしれない。しかし次の瞬間、拍手が湧き起こった。

当時3歳の娘を育てていた広報マネジャーのホン・キさん(37)は「言葉を失った」と語る。「あまりに突拍子もない話で、現実なのかどうかも分からず眠れない夜を過ごした」という。

だが、それは現実だった。妻もブヨンで働くホンさん夫妻は、多額の支援金を受けられるこの機会に家族を増やす決断を下した。

韓国の合計特殊出生率は1人の女性当たりわずか0.75人で、世界で最も低い水準にある。現在のペースが続けば、72年までに人口は約3分の1減少すると予測されている。

その影響は深刻だ。労働力の減少、税収の落ち込み、空席だらけの学校、高齢者を支える人材の不足、そして徴兵制を維持する軍隊の人員確保にも支障が出る。こうした事態に対し、政府はこれまでに巨額の対策費を投じてきた。現金給付に加え、住宅補助や税制優遇など多岐にわたる支援策を講じているが、効果は限定的だ。

そうした中、将来の人手不足を懸念し、同時に優秀な人材を確保しようとする企業も、支援競争に加わり始めている。

 

ブヨンは、こうした取り組みを最初に、そして最も大胆に実施した企業であり、効果は即座に表れたと説明している。支給額は韓国の1人当たり年間所得の約2倍に相当し、昨年は28人の社員が子どもをもうけた。これは例年より約5人多く、同社はこの増加を制度の導入によるものとみている。

他の大手企業も続いている。ゲーム開発会社のクラフトンは、出産時に4万3000ドル(約640万円)を支給し、子どもが8歳になるまでにさらに2万9000ドルを分割で支給する制度を導入。航空機メーカーの韓国航空宇宙産業は、第1子と第2子にそれぞれ約7000ドル、第3子には2万2000ドルを支給している。

少子化を懸念しているのは韓国だけではない。アジアの近隣諸国をはじめ、欧米の先進国でも出生率の低下が進んでいる。米国のトランプ大統領は、1人当たり5000ドルのベビーボーナスについて「良いアイデアだ」と述べており、人口約14億の中国も7月下旬、3歳未満の子ども1人につき年間3600元(約7万5000円)を支給する方針を発表した。

韓国では企業による出産奨励策が始まったばかりだが、政府は既に何十年にもわたってさまざまな少子化対策を講じてきた。保育制度の拡充、育児休業の延長、住宅ローンの金利優遇、さらには精管切除術(パイプカット)の逆転手術を希望する人への補助金まで、政策は多岐にわたる。

政府は30年までに出生率を1まで引き上げることを目標としている。なお、人口を安定的に維持するために必要とされる「人口置換水準」は2.1とされている。

クラフトンの社内保育所は、親の勤務が遅くなる場合には夜9時半まで延長して利用できる。現在では、子どもの送りを担当する父親の数が母親を上回っている

企業と政府が少子化対策に本腰を入れる中、その取り組みが成果を上げ始めている兆しも見えつつある。実際、昨年は約10年ぶりに出生率が上昇に転じ、今年1月から5月までの出生数も前年同期比で約7%増加した。婚姻件数も急増している。

ただ、懐疑的な見方も根強い。一部の専門家は、今回の出生数の増加には新型コロナウイルスの影響で結婚が先延ばしにされていた反動も含まれていると指摘し、現金給付だけでは恒久的な解決にはならないと警鐘を鳴らす。

ソウル大学で人口政策を研究するコ・ウリム教授は「給付金が象徴的な支援であることは確かだが、本質的には柔軟な働き方の導入こそが重要だ」と述べている。

原題:Baby Bonuses Worth $72,000 Aim to Reverse Korea’s Birth Slump(抜粋)

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