
そうした中、又之さんは運命を左右する大きな決断を下します。
「七月二十六日航空操縦者志願セント決ス。大ニ励マン哉。米英撃滅、平和ナル世界確立ノ為ニ」
機関銃隊から航空隊への転科に応募し、合格。パイロットを目指し、訓練が始まりました。

「十一月二十日航空地図ニツキ学科ヲ受ク。男の生クベキ道ハ空ニアリト思ヘリ」
「記念スベキナリ十二月一日、一生忘ルル事ノ出来ヌ初飛行。嗚呼早ク一人前ニナリタイ」
「十二月三十一日思ヘバ思フ程感激ノ深キ昭和十八年ナリ。地カラ空ヘノ転換己ニトリテハ大ナル変化ニシテ亦活躍スベキ足ドリヲトリタルモノナリ。平和ナル年末年始ヲ迎フル幸福ニ感謝シツツ、張リ切ッテ昭和十九年ヲ迎エン」
しかし、迎えた新年は、日本が敗戦に向かって突き進む苦しく厳しいものでした。
終戦1年前の1944年8月、又之さんは三重県の明野陸軍飛行部隊へ配属。
このころ日本軍の戦況は日ごとに厳しさを増していき、ついに10月、フィリピン・レイテ島の戦いで最初の特攻作戦が実行されます。
「大戦果の発表は次々ともたらされる。聞く顔は皆喜色一面に充ちて居るが、常に我々はそれ迄の経過とその蔭に幾多の先輩の流した紅の血を忘れてはならぬ。勿論かくして国に殉じて征った勇士は幸福の至りであるとはいふものの尊い命を捨てて征ったのである。」