又之さんの甥・淺川利夫さん:「日記もいっぱい。こまめに書いてあって毎日くらいにね」


淺川さんが見せてくれたのは、何冊にもわたる又之さんの日記。

入隊後もほとんど欠かさず、つけていたものです。そこに浮かび上がるのは、国のためと自らを律し、命を捧げることを使命とせざるを得なかった、1人の青年の姿でした。

「十月四日曇り入隊4日目午前は県営グラウンドで体力検定だ。久しぶりに県営グラウンドに来て中学時代が懐かしく感ず」


高等学校を半年繰り上げで卒業し、昭和17年10月、20歳で陸軍の松本第五十連隊へ。

入隊4日目から始まる日記には、慣れ親しんだふるさとの景色に慰められ、軍隊生活に慣れようと励む日々がつづられています。

「十月十二日夕食後田中上等兵から注意を受けた。確かに身から出た錆だ」

「十一月十三日晴れ絵の様に美しい北アルプスの姿。何時も心を慰めてくれるのは此の美しい自然だ」

「そうだ、明日は大東亜戦争始まってより三年目。一意専心やるのだ、何も考えずに。(中略)寒いけれども良い行軍日和だ。帰りは少々顎が出たけれども足の痛さを我慢して遂に頑張った」


幹部候補試験に合格した又之さんは、1943年5月、松本を離れ愛知県豊橋の予備士官学校へ。

厳しい訓練の日々で、文面にも緊張感が漂います。

「本日赤城大尉殿ヨリ、我々ハ大東亜戦争ノ為ニ生マレ大東亜戦争ノ為ニ死ヌノダト言ハレタリ。役ニ立チテ命ヲ捧ゲンカ、何処デ墓場を作ラウトモ満足ナリ」

又之さんの甥・淺川利夫さん:「日本の昔からの武士魂というか、自分が犠牲になってみんなを救うとか、他の人を助けるとかっていうそういう気持ちが強かったんだと思うだよね」

面倒見がよく、明るく優しい性格だったという又之さん。「誰かのために」という思いが人一倍強かったのではと、淺川さんは慮ります。