「公平性」をめぐる二つの視点

この「女子種目の意義」ということにも説明が必要です。先日の毎日新聞に男子400メートルハードルで銅メダルを2回獲った為末大さんがこの問題に絡んで見解を述べていましたが、その中で為末選手は、自分が15歳の時に出した200メートルの中学記録は21秒36で、1988年にあのフローレンス・ジョイナー選手が出した200メートルの世界記録は21秒34でほぼ変わらず、現在の中学記録は21秒18で0秒18速く、女子の世界トップ選手が日本の男子中学生に勝てないほど男女の身体能力は違うことを強調していました。そのくらい差があるのですね。

ただ「性」というものは、いつもはっきり白黒がつくものではなく、グラデーションがあるということを押さえておく必要があります。Y染色体が存在しても、その後の性が分かれていく過程、性分化といいますが、この過程で様々な状況が生じることが分かっていて、例えばセメンヤさんの体内で数値が高かったテストステロンが作られても、そのホルモンに反応できない体質があるということ、つまり、Y染色体が存在しているというそれだけで、その人が生物学的に男性とは判定できないことがあるというのです。

実際にこれに該当する選手がいて、それを一つの契機として、国際陸連は1991年に、IOC、国際オリンピック委員会は99年に、疑義が生じた際の個別検査は実施するとしながらも、全選手への性別検査の実施を廃止しました。これが今回、再び全員検査が義務化されたということなのです。それで「なぜ復活させたのか」ということになっているわけです。

先ほどから「公平性」という言葉を使っていますが、世界陸連の言う公平性は、「筋肉の量や強さが大きい男子が女子と一緒に競技をするのは不公平だ」というものです。スポーツにはもう一つ公平性があって、それは「どんな人も競技に参加できる」という公平性です。「例えば、セメンヤさんは女性と断定できないので男性と競技すればいい」というのは、女性であると認知しているセメンヤさんにとっては到底耐えられないもので、そもそも多様性が不可欠な時代にあって、男と女をすぱっと二つに分けるというのはあまりにも乱暴です。パラリンピックのように、クラス分けをすればいいという意見もありますが、例えば男女の間を3段階にクラス分けするということが現実的だとは、私にはとても思えません。