撮影された当時は3歳でした。竹本さんは26年前の切り抜きを大事に持っていました。
竹本秀雄さん
「これは捨てられませんね…」

RCCが制作したドキュメンタリー番組の広告でした。

― ご本人でまちがいないですか?
「まちがいありません。表情がねえ。あのかわいい目はどこに行ったんじゃろうか。77年間、いろんなものを見てきましたからね」
竹本さんは左のほほに深い傷を負い、包帯を巻いていました。

「ほほが裂けて。この傷なんですけど、中の骨が見えていました。もっと盛り上がっていたんですよ、ケロイドで。19歳のときに外科で削ってもらった。いまだにジキッジキッという音を覚えています」

竹本さんは7歳のとき、父親の仕事の都合で北九州に引っ越しました。
竹本秀雄さん
「小学校のときに『ピカドン、ピカドン』と言われました。言われたんですよ。ピカドンって」

竹本さんは、自分が映った古いフィルムを持っていました。義理の兄が偶然観た映画の中で、弟たちの姿を見つけたそうです。
竹本秀雄さん
「終わった後に映写室に入って説明して、これ(フィルム)をもらってきたと。今、思えば、なかなかもらえるものじゃないと思います」
おんぶをしていた少年は兄の定男さんです。当時は11歳でした。2人は爆心地から1キロの大手町4丁目の自宅で被爆しました。竹本さんは建物の下敷きになりました。

竹本秀雄さん
「これを兄が見つけてくれて。秀雄がここにおると。兄が見つけてくれなかったら、後は焼けましたからね。ここにいなかったと思います」
竹本さんはフィルムから引き伸ばした写真を仏壇の上に供えています。
竹本秀雄さん
「あんちゃん、ありがとうね」
「兄としたら、1つもよかったことはなかったと思います」
兄の定男さんは24歳のとき、交通事故で亡くなりました。
竹本秀雄さん
「原爆の話なんてしたことがないです。お前を助けたぞという話も聞いたこともないですし、わたしも小さいですから。今なら聞きたいですけど」

中学を卒業後、理髪店で修行を積んだ竹本さんは、呉市に移り、26歳で理髪店を開業しました。
映像の少年が自分であることをごく親しい人に話したことはありましたが、ほかの人に伝えることは許しませんでした。
妻 竹本万喜江さん
「『いや、ええ。ほっといてくれ』という感じで、今まで友だちも手が出せない。自分からも言わない」
友人 北川純彦さん
「どっかに言おうかと言ったら、『いや、言わんでもええ』って」

なぜ、竹本さんは、苦しい戦後の思いを語ることを決意したのでしょうか…。