創立メンバーの1人、初代音楽監督の 田頭徳治 さんは、当時をこう振り返っています。

初代音楽監督 故・田頭徳治 さん
「事業家の方々から寄付してもらうことと、それから練習場所がなかった。パチンコ屋の売りものがありましてね、五日市の方に。そこへ1週間借りて生活しましたがね、楽器を置く倉庫すらない」

2年後、広島市からわずかな助成金が出るようになりましたが、決まった練習場所もなく、移動する交通費や出演料も出せない状況が続きます。当時、田頭さんは、初代理事長を務めた 高橋定 さんたちに切実な思いを訴えました。

故・田頭徳治 さん
「とにかく不満をぶちまけてね、『高橋先生、今の体制が悪い。内容を変えないとだめだ』というようなところまでやりましてね」

1970年には、「広島交響楽団」と名前を変え、2年後にプロ化します。活躍の場は増えていきましたが、運営面は苦労の連続でした。

故・田頭徳治 さん
「演奏会を開くたびに、とにかく広響の団員の諸君の顔を見るのがつらかったですね。お金がないのに(演奏を)やるのかというようなことも聞きましたからね」

転機が訪れたのは1984年。日本音楽界の重鎮・渡邉暁雄 さんが音楽監督・常任指揮者に就任し、広響 “再建” に貢献しました。

渡邉さんの後任には、若手指揮者たちが次々と広響を率いてバトンをつないでいきました。

音楽監督・常任指揮者に就任
1986年~ 髙関健 さん
1990年~ 田中良和 さん
1994年~ 十束尚宏 さん

夢だった海外公演の話も舞い込みます。初公演は1991年、「広響 国連平和コンサート」をウイーンとプラハで演奏。その6年後にはフランスの音楽祭で第1回定期演奏会のプログラムにも入れたベートーベンの交響曲第5番「運命」も熱演しました。平和を願うヒロシマの心を届けます。

さらに1998年には、日本を代表する指揮者・秋山和慶 さんが、首席指揮者・ミュージックアドバイザーに就任します。秋山さんは20年にわたり広響を率いることになります。

1998年 首席指揮者・ミュージックアドバイザーに就任
秋山和慶 さん(終身名誉指揮者)
「いろいろな曲をやりましたよね。たとえば北欧シリーズなんてのは今までやったことがない。オーケストラとしてやったことがない曲なんかもいろいろ」