81年前のきょう=被爆からわずか4日後の広島で、業務を再開した金融機関があります。混乱の中で立ち上がった知られざる復興への奮闘…。地域の歴史を語り継ごうという取り組みもあります。
広島市西区横川町の川沿いにある河岸緑地です。この日行われたイベントは、屋台やワークショップライブなどのほか、川でのSUP体験などが展開され、地域の関係者が手作りで運営しました。その一角であるVTRが初めて上映されました。被爆証言です。

NPO法人横川スポーツカルチャークラブ土居裕子事務局長
「横川の、記録を生の声で聴かせていただいて、残すことができたらいいかなっていうことで」
地域のNPO法人が、横川周辺の被爆者の体験談を、VTRにまとめたもので、地域の教育に活用してもらえるよう働きかけています。さらに多くの被爆者の声を集めたいとしています。
土居裕子事務局長
「生きる力が昔の人はあるなと思って、そういう力を、なんか自分の中にも、持ちたいし、なんか繋げていけれたらいいな」
こちらは被爆から2ヶ月後の、横川駅の様子です。周辺は爆風で大きな被害を受けました。しかしこちらの写真では、一際大きな石造りの建物だけが残っている様子が分かります。この場所は横川駅そばにある広島信用金庫横川支店がある場所です。ここには当時、前身の広島市信用組合本部の建物がありました。被爆からわずか4日後に預金の払い戻しを始めたといいます。広島信用金庫の川上武理事長です。

広島信用金庫川上武理事長
「横川の支店に在籍したことが、2回ほどありましてですね。そのときに、ご存命の先輩から被爆当時のことを聞かせていただくということがあった」

当時は9つの信用組合が合併し、全国トップの預金量を誇る信用組合でした。しかし合併からわずか3か月後に原爆が投下。組合長を始めとする役職員48人が命を失いました。本部は、爆風を耐え抜き、被爆直後、救護所として使われました。生き残った職員も家族の安否すらわからない状況でした。
広島信用金庫川上武理事長
「何回も出た言葉がですね、悲惨という言葉感覚を通り越して混乱と虚脱ですね」
トップ不在の中でしたが、預金を引き出したいという被災者の要望に一刻も早く応えようと、職員が動き始めます。これは被爆から20年後の1965年に被爆当時を知る人で語りあった座談会の様子です。当時の業務部長だった古屋伝助さんは日本銀行広島支店に行き、相談したところ、支店長から手を握られたと振り返ります。

当時の日銀広島支店長(座談会の記事から)
「非常払いについては君に任せる。通帳がなくても印鑑がなくても相手の確認さえ就けばどんどん払ってあげなさい。お金はいくらでも用意するから」
そんな中、本部の金庫を開けなければなりませんでした。金庫室の鍵を自宅で保管していた経理課長の金口省吾さんは、焼け落ちたがれきの中を日が暮れるまで数時間かけて探し、見つけたということです。金口さんは自分の代わりに建物疎開に出ていた妻ら家族の安否がまだ分からない状況でした。
広島信用金庫川上武理事長
「今の言葉で言うのは軽すぎますけどやはりプロ意識って言うのが一番表に出てきたのではないか。戦時中であれ被災した直後であれ、(被災者にとって)先立つものはお金ですので、たちまち最低限の金融インフラを維持するということに集中したということ」
その中で被爆からわずか4日後、いち早く業務を再開することが、できました。本部は臨時の救護所だけでなく、西警察署もこの建物を間借りして使っていました。業務再開といってもロビーには遺体が何体も置かれ、かろうじてその上にはコモがかけてある状態だったといいます。

広島信用金庫川上武理事長
「(職員は)頭の中が混乱するような状況だったが、客から『預金を出して下さい』と言われ、現実にまた戻ってという繰り返しだった」
当時の状況を地元の人たちは何と聞いていたのでしょうか?
横川地区の男性
「小さい頃銀行へ行かされていた信用金庫の扉があって、玄関周りがすこし昔の感じで、人で賑わっていた。4日後ぐらいですぐ営業したっていうのもあとから聞いて、この建物は原爆に遭ったんだなと」
横川地区の女性
「そんな事ができたんだねと。4日後っていうのがね。それをしたっていうのは凄いなという思いがあります」

理事長の川上さんによりますと、戦時中はあらゆる事態に備えて、帳簿の写しを別に保管していたということです。
川上理事長
「今にいうところのBCP(事業継続計画)なんですよね。地域に根を張ってお客さん1人1人の顔でそれこそAIじゃないですけど判断して個別の取引を我々が分かっていくと、金融機関のあり方として必ず必要であると言う風に感じています、それを伝えていきたい」



































