祖父母や親から被爆体験を聞き、後世に伝える「家族伝承者」という制度があります。祖母が誰にも話さなかった体験や思いを聞き取り、「家族の歴史」を記録しようと取り組む女性がいます。

小田 愛子さん(91)と、孫の長見 たかみさんです。

祖母 小田 愛子さん
「昔の道路はこれくらいしかなかったんじゃけ。ここからあそこくらいの道路しか。トラックが通るくらいの道路だったんじゃけ。このお寺も7段くらい階段上がってね…」

幼いころに両親を病気で亡くした愛子さんは、祖父母やおじなど9人の大家族で広島市の中心部・寺町で暮らしていました。
祖母の話を聞きながら、細かく記録するたかみさん。「祖母が元気なうちに被爆体験を聞きたい」と、「家族伝承者」を目指しています。

長見 たかみさん と 小田 愛子さん
― ここで住んどったときのおうちは、どんなおうちだった?
「大きな家だったんよ。蔵があってね。借家が4軒あってね」

― ばあちゃんはどこの部屋で寝たりしよったんかね?
「わたしはね、おばあちゃんとおじいちゃんとこの8畳間」

戦前の暮らしの様子もていねいに聞き取ります。77年前、14歳だった愛子さんは安芸女学校の3年生でした。
祖母 小田 愛子さん
「あの信号あたりが福島橋だった」

8月6日の朝は、学徒動員で天満町の航空部品を作る工場にいました。気づいたときには、爆風で倒壊した建物の下敷きになっていました。

祖母 小田 愛子さん
「先生の声が『みんな、早う出てこーい」と聞こえるから、ふっと目を開けて、小さい灯があったから、かわらやらをみんな、はぐってから出て行ったんよ」

がれきの山からはい出て、同級生と一緒に炎から逃げる人々の流れに加わりました。

祖母 小田 愛子さん
「『火のない方へ逃げ。逃げ』と先生が言うてじゃけ、どっち向いて逃げたかわからんけど、橋は燃えよって、橋の欄干が燃えよって、馬が焼け死んだのが、ひょっと見えたけどね」
工場の近くにあった福島川は埋め立てられ、愛子さんの印象に残っている福島橋の面影はありません。

たかみさんが持つ原爆投下前の地図を頼りに当時の足取りをたどりました。

祖母 小田 愛子さん
「あのほうだったんじゃないかね。わたしは向こうへ向いて出て、こうやって橋を渡ったんじゃない? 川沿いを通って橋を通ったんかね。どう言ったらええかね。ただ逃げてきて、何があったんか、どうなったんか、分からんままに逃げとるんじゃけえ」
