過酷な訓練の日々…わずかな楽しみも
大分海軍航空隊では艦上戦闘機を扱っていて、操縦の難しさから事故が頻発していました。戦況の悪化による物資不足も重なり、惣門さん自身も3度にわたり事故で命を落としかけ、同級生の中には事故で亡くなった者がいたと明かします。
惣門さんの手記『指揮所が騒然となった。1機の零戦が垂直のまま護国神社の森の彼方に吸い込まれるように没した』

郷土戦史研究家 亀田雅弘さん:
「旧式機材で何とか訓練を行っている状況と報告されています。いわゆる耐用年数超過の機体を使用していて、機体の空中分解を起こすリスクをはらみながら訓練していた」
一方で久しぶりに家族と面会し、差し入れをもらったことや、航空隊の慰安旅行で行われた宴会の様子も描かれていて、厳しい訓練の中でわずかな楽しみを見つけ出しています。
郷土戦史研究家 亀田雅弘さん:
「大分航空隊は謎の部隊で写真も残っていない。惣門さんの資料がなかったらわからなかったことがたくさんあるんです。そういった意味では惣門さんが書いたものはとても貴重な資料です」
惣門さんは大分海軍航空隊を昭和19年3月に卒業。その後、特攻隊として出撃することなく終戦を迎えました。昭和23年に回顧録を執筆し、昭和36年38歳で亡くなっています。この回顧録は2007年、惣門さんの妹によって飯塚市歴史資料館に寄贈されました。

飯塚市歴史資料館 樋口嘉彦学芸員:
「詳しく聞きたいと思っても生きている方がほとんどいなくなっています。これから後世にどう伝えていくかが我々の課題だと思います」
戦後80年。戦争の実態を生々しくつづった貴重な回顧録は、平和の尊さを改めて訴えかけています。