店内には洋服や雑貨などが並び、カフェも備わっています。

宮崎 香蓮さん:「これはブローチかな? かわいいー、キラキラ」

かつて、この場所には、違う店がありました。

宮崎 香蓮さん:
「被爆者の店…?昔、(ここは)おみやげ屋さんだったような記憶があって…。
でも“被爆者の店”っていうのは知らなかったです。どういうお店なんですか?
”被爆者の店”って?」

”被爆者の店”で 約40年 働いた松谷英子さん

観光客向けにみやげ物などを販売していた「被爆者の店」

その名の通り、被爆者が働いていました。
どんな人が、どんな思いで仕事をしていたのか。かつて働いていた女性を訪ねました。

宮崎 香蓮さん:
「こんにちは、すみません。失礼します。入ってもいいですか?お邪魔します」

被爆者の店で、約40年、事務員として働いた松谷英子さん(81)

国に「原爆症」と認めるよう求めて裁判を闘い、23年前、最高裁で勝訴。
原爆症認定を勝ち取った歴史的な「松谷訴訟」の原告で、その後の原爆症認定の門を広げた先駆的な被爆者です。

松谷 英子さん:
「これがその時の傷だから。何十年経っても、暑い時と寒い時は痛むんです」

生まれてすぐ母を亡くし、物心つく前に養父母に引き取られた松谷さん。
3歳の時、爆心地からおよそ2.5キロ離れた稲佐町一丁目の自宅の縁側で遊んでいる時に被爆しました。
当時の記憶はなく、両親から聞いた話です。