NBC被爆80年シリーズ企画「銘板が伝える8.9」。第12回は、現在の活水中学・高校の場所にあった鎮西学院中学校です。丘の上の学び舎は、爆心地からわずか500メートル。多くの若者と教職員が命を落としました。

爆心地から、わずか500メートル。長崎市宝栄町、かつては竹の久保町だった小高い丘の上に、「鎮西学院旧制中学校」はありました。現在は同じプロテスタント系の活水中学・高校になっています。

鉄筋コンクリート4階建てだった校舎は、原爆で4階部分が全壊、3階は爆心地に面した北側半分が崩れ、さらに火災によって各階の内部は消失しました。

当時は三菱電機製作所、三菱製鋼所の一部が疎開しており、学徒報国隊ら男女工員130人が在籍。被爆時、校内には教職員10人と学校防護隊の残留生徒10人、疎開工場の工員87人がいました。

外出中だった教職員11人含めた計118人のうち即死68人、後日死亡35人、わずか15人の生存者も14人が負傷しました。

このほかの教職員、生徒およそ750人は、三菱兵器製作所などに動員されており、教職員9人、生徒130余人が原爆で亡くなったと推定されていますが、学生名簿が焼失したため今なお定かではありません。

鎮西学院・卒業生 馬場重幸さん:
「近くまで来ましたけど、足が動かなかったですね…。校舎の近くには『トタン板』が5箇所ぐらい置いてあって、そこに遺骨が置いてあって…もう言葉がありませんでした」

西河タケノさんの夫、虎熊さんは、鎮西学院の校内にあった研究室で原爆にあい、亡くなりました。結婚してわずか3年でした。

夫が鎮西学院の校舎内で爆死 西河タケノさん:
「手とか足とかはなかった…胴体から上だけがあって…。それでも『伏せ』のかっこうをしていたんです。手はなかったけど、顔はちゃんとあったんですね…。そして真っ黒だった…」

「どうやって生きていけばよかとやろうかと思って…。喪服をまとって我が身を閉じるということか私は、まだ25歳でと思って…。ものすごく生きたくなかったです。死にたい、死にたいと思っていました」

被爆校舎の土地と建物は、1970(昭和45)年に活水学院へ売却されました。1、2階は補修し、3、4階は破壊された部分を取り除いて増築。工事中に地中から見つかった遺骨は壺に納められ、鎮西学院に送り届けられました。