当時国民学校6年生で11歳だった深堀悟さん。
爆心地から約1.5キロの長崎市本原の親戚の家で被爆しました。
自宅は爆心地から約600mの場所にあり、深堀さんは家の焼け跡で母親と祖母と思われる骨を拾い、一人で埋葬しました。
兄弟も放射線の影響で次々に息を引き取り、家族7人が亡くなりました。
生きのびた2歳年上の兄と焼け跡に小屋を建て雨露をしのぎ、ヘビ、カエル、トカゲ、なんでも食べて生きのびました。
体調不良と差別に耐えながらも「なんのために生きているのか」と何度も死のうと思ったと語っています。
被爆50年を過ぎて体験を語り始めた深堀さんは、無差別にすべてを死と破滅に追いやる原爆だけは絶対に二度と使ってはいけないと子どもたちに伝えました。
(2014年取材)