子どもが生まれること。それは親の人生にも少なからず影響を与える出来事です。長崎県で住宅会社を営む矢部福徳さんは、重い障害を持って生まれてきた娘に、商売の根底も、生きる喜びや人にとって大切なことも教えてもらったと言います。娘の死から16年、矢部さんは一冊の本に娘が教えてくれた大切なことを書き記しました。
長崎県諫早市に本社を構える住宅会社「ヤベホーム」。
社長を務めるのが矢部福徳さんです。
先月、自著『またあの笑顔に逢えたなら 重い障がいのある娘が教えてくれたこと』を出版しました。

矢部福徳さん:
「子どもが障がいを持って生まれた親御さんたちに、私と清子の物語が何か参考になれば、そして命の尊さ、大切さが皆さんに少しでも伝わればという思いで書かせていただきました。」
1983年6月21日、矢部福徳さんの長女清子(きよこ)さんは誕生しました。仮死状態。「水頭症」と「二分脊椎症」という重い障がいを持っていました。

生後すぐに、手術と入退院を繰り返す日々が始まりました。しかし、一番苦しいはずの清子さんはいつも愛らしい笑顔をみせてくれたと言います。

矢部さん:
「お茶目っていうかね。どんなに苦しくても笑うんですよ。とにかく可愛いんです。妻が倒れて自分が2年くらい私が排泄とか砕いて食べさせたりとかお世話をして、それからまた急激に可愛さが何とも言えない部分になって、私の人生そのものに変わっていきました。」
「素直で謙虚な心を持つとか、お客さんに喜んでいただくとか、商売の根底もこの子から教えられてきた部分があります。」
矢部さんが、「家に暮らす人の健康」を考えた住まいづくりを提案するようになったのも、清子さんとの暮らしの中から生まれた思いでした。
地球温暖化防止に向けた活動も進め植樹ツアーを企画実施、そして医療福祉施設にこれまでに3台送迎車「清ちゃん」号を贈呈しています。
矢部さん:
「外に出るのが好きな子で、ドライブに連れて行ったりしたんですが、たまに無呼吸発作を起こしてね。唇が真っ青になってチアノーゼ(※血液中の酸素不足で起きる症状)になることがありました。そういう時に森の中に連れて行けば唇の色も良くなった。森を大切にするということは、やはり人間にとっていいことなのかな。」
中学、高校に通っていた時は病状が安定していた清子さんでしたが、20歳頃から少しずつ体調を崩し始めました。そして23歳の冬、意識を失い440日の闘病の末、意識が戻らないまま2008年2月に亡くなりました。

矢部さん:
「人生の逆境にある方、苦難に立たされている方などに私と清子の物語がわずかでも参考になればと思います。子供に重度の障がいがあっても、周りにいる人はその子によって生かされている人が多い。一方で『自分は何のために生きているのか』『何の意味があるのか』と思う方もいらっしゃいます。そうではないということも本を通して訴えたいんです。」
本の中では、重い障がいを抱える子供の親としての葛藤や悩み苦しんだ日々の思いが飾らない言葉で語られています。
『またあの笑顔に逢えたなら 重い障がいのある娘が教えてくれたこと』は、長崎県内の主な書店で販売されています。