女性や子どもまでもが小銃や竹やりを手に戦闘に参加

(知念シゲさん)※頭蓋骨が並ぶ絵を指さして
「弟がかいたのこれ。芳魂之塔に並べられていたよいっぱい」

伊江島で暮らす知念シゲさん、87歳。
小学生のとき、島の戦闘で父・守さんを亡くしました。
遺骨は未だ見つかっていません。

(知念シゲさん)
「(父親の)軍服の写真を持っていたら、最初に捕虜にされたら殺されると言っておふくろは防空壕のそばに埋めた、写真みんな。親父の写真は1枚もない。どんな思いで亡くなったかねといつも思うけど」

当時、伊江島の住民およそ7000人のうち3000人が疎開。
知念さんも父を残し、家族で島を離れました。

疎開先から伊江島が遠くに見えていたという知念さん。そのときに見た光景は今も頭から離れません。

(知念シゲさん)
「戦争の照明弾が上がって明るくなる。ボンと落ちたら爆発して。私、いまだかつて花火はできないの。あのボンという音を聞くと、頭がおかしくなる。だから、私は花火を見たことない」

島に残された住民たちは、女性や子どもまでもが小銃や竹やりを手に、戦闘に参加したといいます。

(知念シゲさん)
「(住民で)特攻隊として爆弾かついで戦車に突っ込めした人たち4名はいるよ。兵隊と一緒に。ここ大変な戦場だった」

日本軍から「捕虜になったら殺される。捕虜になる前に自決しなさい」と言われ、手りゅう弾を渡されていた伊江島の人たち。

集団自決でも多くの命が失われました。

(第32軍司令部壕)「1945年6月23日、第32軍の牛島司令官の自決を最後に沖縄の組織的な戦闘は終結」