鹿児島市は終戦の年の昭和20年、8回の空襲を受け、3329人が犠牲となりました。中でも6月17日深夜の空襲、いわゆる鹿児島大空襲では2316人が死亡しました。

アメリカ軍のB29、117機は午後11時すぎに鹿児島市上空に到達。13万個もの焼夷弾を降らせました。

アメリカ軍機が上空から撮影した鹿児島市街地の写真です。左右に明るく光っているのは焼夷弾で炎上している建物です。

鹿児島市薬師にある学校の宿舎で寝ていた佐藤さんは突然の爆音に飛び起きました。

(佐藤普子さん)「なんだろうとなっていたら爆弾が落ちていると、市内を学校から見たら火の手が上がっていた」

下級生の手を握り、布団をかぶって裸足のまま校庭の防空壕へ走りました。

(佐藤普子さん)「階段を降りて1階の窓から下に飛び降りた。そのときにはこっちの手は、下級生の手はもう繋いでなかった。そこではなればなれで」