
当時、保育士を夢見ていた佐藤さん。昭和18年、13歳のときに親元を離れ、鹿児島市にあった鹿児島高等女学校、今の鹿児島高校に入学。
しかし、戦況が悪化すると学校生活も変化し始めます。上級生は学徒動員で当時谷山にあった戦闘機の部品工場などで働きはじめました。
(佐藤普子さん)「みんな食うや食わず。芋がある人はいいほう。みんなお腹ペコペコの時代だった」
空襲に備えて、授業は校庭に防空壕を掘る時間に変わりました。

(佐藤普子さん)「最初は遠い国のことだと思っていたけど、だんだん近まってきて日本でも戦争が始まるんじゃないか、ひどくなるんじゃないかと思った」