故・岡本喜八 監督
「僕はちょうど豊橋の予備士官学校にいましてね。そこで終戦を聞いたんですけど、あと15日ぐらいたてば9月1日ですか、もう配属になって、特攻隊要員になってましたから。だから、まず我々も玉音を聞いて、あとは助かったということがまず先にあったわけですね。後でしばらく経ってから日本と日本人がどうなるか。そういう不安感とそれからまた映画作れるんだという何か喜びみたいなそういったちょっと複雑な気持ちでしたけどね。誰にしてもいろんな挫折感とか入り混じった気持ちだったと思いますけどね。単純なもんじゃなくて」

1924年に米子市で生まれた岡本監督。
映画監督になるため東宝に入社したものの、翌年には召集されてしまいます。

故・岡本喜八 監督
「東宝入社してから4か月ばかり助監督やってましたからね。一番それが個人的なものでは、大変な喜びだったですよね。それから1年ぐらい経ってから大体半分近くの同窓生が死んだという。僕は特甲幹(特別甲種幹部候補生)だから、半年ぐらい入隊が遅れたから助かったと思いますけどね。普通に入隊した連中のうち、大体半数近くが死んだんじゃないですか。だから同窓会名簿で半分近く抹殺されてますからね。そういうのを見たときに、やっぱり自分は何かやっぱり戦争映画を作って、ああいう経験再びしないようにという。なんか僕なりのね。それが仕事じゃないかと思ったんですけどね」

「21歳と6か月か、おれ…お終いだな」

このフレーズから始まる映画「肉弾」では、岡本監督は自らの経験を主人公に投影させ、物語が進んでいきます。

「別に指揮はしませン、爆弾抱えてテキのM4(エムフォー)戦車にぶつかるだけで」

命じられたのは、爆弾の入った木箱を抱え敵の戦車に突っ込む特攻。
いわゆる「肉弾」や魚雷の横に括られたドラム缶の中に入り、海に放り出される魚雷による特攻です。

敗戦色が濃くなるにつれ「特攻」という狂気が蔓延した戦時下。
真実さんは青春を戦時下で過ごした父が生まれ育ったまちを、初めて訪れました。