太平洋戦争ではアメリカ軍の空襲により青森市で1000人以上が犠牲になりました。当時の壮絶な体験は、後世に伝えなければいけない。その一心で青森市の男性があの日、火の海と化した中心街を版画にしました。



※平井潤治さん「トタンを組み合わせて屋根を作って、雨をしのいだ」

青森市の平井潤治さん(87)です。1945年7月28日、青森市の中心街を焼き尽くし1018人の尊い命を奪った青森空襲の体験者です。

※平井潤治さん「火の海ですね、本当に火の海。青森市が火の海で、何も残さないで燃えてしまった」

青森空襲の前日、アメリカ軍は青森市など地方都市への空襲を予告するビラを撒いていました。そのなか、平井さんは自宅に戻らなければ食料の配給を停止するという青森市からの通達などを受け、疎開先から自宅へ戻ります。

そして、目の当たりにしたのが戦争の現実でした。

※平井潤治さん「空襲警報のサイレンが鳴ったとき、親がすぐに、『逃げなきゃだめだ』と、(自分たちを)起こしにきてそのまま服を着て逃げた」

平井さんの自宅は堤川の西側の住宅街にあり、あの日は一度、自宅近くの防空壕へ逃げ込みました。その後、さらに山手へ避難するために防空壕から出たときに見た光景はいまも、脳裏に焼き付いているといいます。

※平井潤治さん「(爆撃機が)飛んでいったが、また戻ってきて、今度は燃え足りないところをまたさらにやった。しつこくしつこく」

迅速に避難した平井さん一家は逃げ切ることができましたが、焼夷弾が直撃し自宅は焼け落ちていました。この壮絶な体験は、後世に伝えなければいけない。平井さんは2021年、趣味の版画をいかして作品を制作しました。

※平井潤治さん「(版画の)小さい点はB29が飛んでいる。焼夷弾を持って。落としたら途中で破裂して、焼夷弾がバラバラ落ちてきて、火が出て火の海になった。忘れられない光景です」