元農林水産大臣で衆議院議員を6期、参議院議員を2期務めた田名部匡省さんが26日未明、亡くなりました。90歳でした。青森県内の非自民勢力をまとめ、信念を貫いた生涯でした。

田名部匡省さんは26日午前4時前、八戸市内の病院で「敗血症性ショック」のため亡くなりました。90歳でした。

田名部さんは、八戸市出身で1967年から県議を2期務めたあと、1979年に行われた衆院選で初当選し、通算で衆議院議員を6期、参議院議員を2期務めました。

宮澤内閣では農林水産大臣を務め、コメ市場の部分開放をめぐるウルグアイラウンド交渉を担当しました。

田名部匡省 農林水産大臣(当時57歳・1992年取材)
「交渉だから見通しは立たない。立つような見通しなら楽でしょうがない。見通しは立たないけれども、(コメ輸入自由化は)日本はだめです」

県内の非自民勢力をまとめ、民主党の政権交代を見届けたあと、2010年に政界を引退しました。

田名部さんの次女の田名部匡代参議院議員は、27日に死去を受けて、次のようにコメントしました。

次女 田名部匡代 参議院議員
「大往生だと思っている。自分の思うような道を、信念を貫いて最期までやり通せた満足のいく充実した人生だったのではないかと思う」

通夜・葬儀は近親者のみで執り行い、後日、お別れの会を予定しているということです。

田名部匡省さんと選挙での地盤が同じで、“八戸戦争”と呼ばれる激戦をくり広げたのが大島理森元衆議院議長です。田名部さんの訃報に、哀悼の意を表しました。

大島理森 元衆議院議長
「田名部匡省先生のご逝去に対して、深甚なる哀悼の誠を捧げます」

大島理森元衆議院議長は27日午後、都内で田名部匡省さんの訃報について報道各社の取材に応えました。

田名部さんは2期目の当選を果たした1980年の衆院選から地盤が同じ八戸市の大島さんと“八戸戦争”と呼ばれる激戦をくり広げました。“八戸戦争”は6回、1998年に田名部さんが参院選に挑戦するまで続きました。

大島理森 元衆議院議長
「激しく厳しく戦ったが、郷土愛という意味では共通した思いを持っていたことも私は確信している」

田名部さんの政治人生で大きな転機になったのが1994年です。
もともと、田名部さんは大島さんと同じ自民党に所属していましたが、新生党へ入党し二大政党制を掲げるようになります。

翌95年の知事選では、木村守男さんを支援し初当選をはたしていて、非自民の結集軸として大きな役割を果たしました。

その後、1998年には新しい政治団体「青森県民協会」を設立。県内の保守勢力を自民党と二分する存在として2004年まで活動しました。

田名部匡省 参議院議員(当時69歳・2004年取材)
「県民協会なんという名前で、こんなに選挙に勝てたということは、私にとっては生涯の政治家の誇りを感じていますよ。県民の皆さまに本当に感謝しております」

自らの信念を貫いた田名部さんは、民主党の政権交代を見届け、2010年に政界を去りました。