不死鳥のように
福井地震は、前年の1947年に施行された「災害救助法」が、全国で初めて適用された大規模災害でした。これにより、日本政府は「中央災害救助対策協議会」を設置し、約1200トンのコメ(白米換算)と食料品を放出しました。
またGHQつまり進駐軍は、16の移動給水設備を福井市内に作り、給水活動を行なったといいます。米兵の乗った進駐軍のトラックが、多数の負傷者を医療機関まで移送したなどということもありました。
しかし、福井震災からの復興の主役はやはり市民でした。
戦災、震災、水害と、いずれも壊滅的な被害に襲われながらも、市民たちの長年の努力、不屈の精神で、復興と発展を果たしました。
このことから、福井市は市民憲章で「不死鳥の街」を宣言しています。
今でも福井市内のあちこちで「フェニックス通り」をはじめ、公共施設や民間のビルなどに「フェニックス(=不死鳥)」の名称があるのはそのせいなのです。














