軍は守ってくれると思っていたが 何も残らなかったまち

新垣庸一郎さん(89)
「最初はね、安心だと思いますね。守ってくれるだろうというようなことですよ。軍曹くらいの方ではないかと思うんですけどね、そういった方が家に来て、いろんな話をやったり、食事を一緒にして過ごしたりという事はありましたね」

陸軍が駐屯することに安心感を抱いていた新垣さん。当時は一緒に食卓を囲むこともあったといいます。しかし戦況の悪化とともに、兵舎が増築され、学校や駅舎までもが次々と軍に接収されていきました。

新垣庸一郎さん(89)
「恐らく少年兵の養成でしょうかね。将来の兵隊を作るための一つの動きだったかもしれませんけど」

学校生活にも変化が表れます。小学校は廃止され、新たに国民学校となりました。

「男児ニ在リテハ特ニ教練ヲ重ンズベシ」
「服従ノ精神ヲ涵養スルニツトムベシ」

国民学校が設置されると、軍隊の予備軍である「年少の国民・少国民」として、子どもたちまで戦争へと絡めとられていきました。中城湾臨時要塞を皮切りに、軍事施設が数多く置かれた与那原町は、沖縄戦では焦土と化しました。

新垣庸一郎さん(89)
「与那原はもう、東から西、全然何も残っていませんでしたからね。結局それは“軍都”になったからですよね」

終戦から78年。自衛隊の「南西シフト」を背景に、先島諸島では基地を拡大しようと国が次々と土地を買収しています。それは太平洋戦争前夜の社会の動きと重なります。