**********************
「かっぺいっ!たのむぞ~」
坊っちゃんスタジアムのスタンドからはマウンドに向かう「背番号15」に熱い声援が飛んでいた。宇都宮勝平投手。名前は「しょうへい」と読むが、チームメイトもファンも「かっぺい」と呼んだ。

その宇都宮投手は、地元愛媛県の西予市宇和町の出身。宇和高校から日本文理大学に進んだが、2004年の秋、地元愛媛に、なにやらビッグなプロジェクトが立ち上がろうとしていることに心躍らせ挑戦を決意。見事、11倍の難関を突破しプロ野球独立リーグ「四国アイランドリーグ」の1期生になった。
2005年に誕生したプロ野球独立リーグの四国アイランドリーグ。4月29日の坊っちゃんスタジアムでの開幕戦には、その歴史的船出を見届けようと7067人の野球ファンがつめかけ開幕戦が行われた。
この7か月前、元西武ライオンズの黄金時代を築いた1人、石毛宏典さんが「若者達に、野球で夢を見続けられる場を提供したい」と、四国4県を舞台にしたプロ野球独立リーグ構想を発表。以来、石毛さんは四国4県を奔走し、各県の自治体への協力を仰ぎ、企業を訪問してはスポンサー集めに奔走。考え得る関係先は全てに出向き、膝を突き合わせながら独立リーグ設立の意義を熱く説いていった。
それでも最大の課題は“選手集め”。NPBを代表するスター選手、石毛さんのことは知っていても、高校生や大学生、社会人チームやクラブチームの選手たちが、何処へ向かうとも分からない未知の「独立リーグ」という存在に、自身の将来をかけるだろうか…。
折しも2004年といえば、プロ野球界にとって「球界再編問題」の真っ只中。9月には日本プロ野球史上初の“ストライキ”が決行されるなど、野球界全体に不穏な空気が漂う中での独立リーグ構想発表だけに「あの石毛はNPBに反旗を翻したのか…」と誤解されてしまうことも少なくなかったように記憶する。
それでも不況のあおりは深刻で、当時は企業チームがピーク時の3分の1に減少するなど、高校・大学を卒業した選手たちの“受け皿”が激減。野球を続ける場所がなく、NPB入りの夢を早々に諦める選手も全国的に増加する中、誰でも夢にチャレンジできる独立リーグの理念は明快で期待は徐々に高まっていった。
そして迎えたトライアウト。四国・香川をはじめ、東京・札幌など国内5会場には実に1166人の受験生が集結した。
しかし発起人の石毛さんは、その受験生たちを前に開口一番、こう言い放った。
「このリーグは厳しいです!全てにおいて厳しいです!」
「プロ野球選手になりたい」というその覚悟が本物かどうか、若者達にぐいぐい迫り、ふるいにかけていく石毛さん。それでも当時の福岡ドームで行われた最終トライアウト終了後には、約250人の受験生による大きな円陣の中央に立ち、実に11分間に渡り「野球界の先輩」として熱い思いを丸ごとぶつけた。
「きょうここで落とされても『俺は野球をやるんだ!プロになるんだ!そのためにこのリーグに入るんだ!挑戦するんだ!』と決意し行動に移したその気持ちは忘れないで欲しい」
そしてさらに続けた。
「プロ野球ファンは選手の生き様を、お金を払って見に来ている。しかし今、魅力的な野球選手が減ってきている。だから野球人気も落ちている。ぜひみんなには、人間的な魅力あふれる選手になってほしい」
結局、最終合格者は約100人。香川・三豊市での1か月間の合同合宿の最終日、初代四国4チームのメンバーが発表された。そして愛媛マンダリンパイレーツの1期生の名は、元日本ハムの沖泰司コーチ(松山商業出身)から読み上げられた。
「ピッチャー、宇都宮勝平」
「ハイッ!」

宇都宮勝平投手は球速140キロ前後の本格派右腕で、愛媛MPには4年間在籍。3年目の’07年には39試合で5勝2敗2セーブ、防御率2.94をマークすると、4年目の’08年にも39試合で5勝1敗1セーブ、防御率2.85と活躍。チームの後期リーグ初優勝に大きく貢献した。
しかしドラフト会議で指名されることはなく、宇都宮投手は’08年シーズン終了後、この年限りでユニフォームを脱いだ。
それでも、全国的に無名だった選手が1年ごとに成長し、マウンド上で逞しさを増していく姿を見届けられることは、“おらが町”の独立リーグファンにとってまさに醍醐味。今でも「宇都宮」の名は「懐かしの名投手」として多くのパイレーツファンの記憶に刻まれている。

ただその勇姿を、坊っちゃんスタジアムのスタンドから「1人の男の子」が見ていたことを記憶している人は、そう多くはないだろう。
**********************
「生まれた時から、家には愛媛MPの帽子やユニフォームがありました」
男の子の名は宇都宮葵星(きさら)。'04年生まれの18歳。4歳の時、父・勝平さんは現役を引退したが、15年という歳月はあの日の男の子を立派な野球人に成長させ、父が野球人生をかけた同じ愛媛MPで、自らも戦う覚悟を固めた。
「やるなら最後まであきらめず、自分が決めたら最後までやり通せ」
父・勝平さんから贈られた息子・葵星選手への言葉であり、約束だ。

そんな宇都宮選手にはもう1人、心強い味方がいる。母校となる松山工業野球部の田口大地監督だ。元愛媛MP3代目の主将で1期生、なんと父・勝平さんの同期という縁にも見過ごすことはできない“運命”を感じる。
ただ当初は「NPBを目指す環境としてはとてもいいと思うが、NPBを目指さないならやめた方がいい」と、田口大地監督から伝えられたという宇都宮選手。夢を叶えることの厳しさ、難しさを肌で知る元愛媛MP主将の言葉は重かった。
それでも「自分は愛媛MPでプレーしたい」と強い心で決断。夢に真っ向勝負を挑む勇気に、田口大地監督もその後は力強く背中を押し続けてくれたという。

**********************
2023年1月30日。新入団選手合同発表会では、報道陣に15人のプロフィールが配られた。内野手登録の欄に宇都宮葵星選手の名前があり、自己PRの言葉が続く。
「自分の武器は50m5秒9の足です」
さらに続けてこう書かれている。
「何事にも負けず嫌いな性格のため、負けることが嫌いなので、勝つまでやり通します」
とても分かりやすい。
**********************
そして2月1日。プロ野球選手にとっては「正月」と言われるこの日に新体制をスタートさせた、愛媛MP。

新入団選手15人を含めた総勢39人は、様々な思いを胸に新たな挑戦の時を迎えた。そして外野の芝の最も奥、フェンス間近には宇都宮葵星選手の姿が。やや細身の体も、むしろ伸びしろに感じるほど、動きは軽快だ。

早朝、田口監督から携帯電話にメールが届いたという。
「厳しい世界だが、夢に向かって頑張れ!」
持ち前の負けじ魂に火が着き、宇都宮選手はたぎる思いを胸に秘めグラウンドにやってきた。
「宇都宮勝平投手の息子」ではなく「背番号38 内野手 宇都宮葵星選手(18)」
己に負けず、相手に負けず、父を越えるまで、夢を追い続ける覚悟だ。
**********************
2023年10月26日。プロ野球ドラフト会議で、チーム史上過去最多となる3選手が育成指名を受けた愛媛MP。その3度に渡る歓喜の余韻残る会場の片隅で、親子2代、19年越しの夢を叶えた宇都宮選手の父・勝平さんは静かに語る。
「嬉しいですね。すでに、越えられてしまいましたね」