ちょっとひととき…懐かしい “昭和の長崎”を感じてみてください。
NBCライブラリーに残る 昭和50年代の貴重な映像の一コマです。
”坂の町、長崎“は、長崎港を中心に山々が取り囲むすり鉢状の地形のため、平地がほとんどなく、昔から戸建て住宅の建設用地の確保が課題となっていました。
長崎港を取り囲む山の傾斜地に住宅が建ち並んでいますが、これは江戸時代から戦前にかけては段々畑だったところを、戦後の高度経済成長期の人口増加に伴い宅地化されていったものです。
そのおかげで『世界新3大夜景』に選ばれた要素のひとつである「長崎港を中心に山々が取り囲むすり鉢状の地形が、住宅の明かりによって星空のように輝く景観」が形成されたともいえます。
しかし、この傾斜地も昭和50年代には概ね開発し尽されてしまい、住宅用地の確保が急務となっていました。
この状況を受けて、昭和50年代後半には長崎市と周辺で大型住宅団地の開発が活発になりました。

そのうちの1つが長崎市東部の東長崎地区に造成された”矢上団地”でした。
矢上団地の広さは104万平方メートル、分譲住宅地は約1,400区画で、1983(昭和58)年から宅地の分譲が始まりました。



この年の10月に開かれた現地見学会にも、当時の人々のステイタスであった、”夢の庭付き一戸建て”を求める家族連れが多く訪れました。
現地を案内するする係員と、未来のマイホームを夢見てチラシを手に分譲地を回る人々。
矢上団地は当時、長崎県内で滑石団地、西諌早ニュータウンにつぐ “マンモス団地” で、長崎県住宅供給公社が造成を手掛けました。
この頃、長崎市郊外では矢上団地のほかに「南長崎ダイヤランド」など複数の大型団地開発が進められていました。

このため宅地は供給過剰気味になり、販売競争も激しくなっていました。
ちなみに矢上団地の分譲宅地は、当時1区画平均およそ220平方メートルで、価格は1坪あたり(3.3平方メートル)で 15万円~22万円でした。
放送局が撮影した 長崎の映像を配信している”ユウガク”より