沖縄戦、最後の激戦地となった糸満市にある住宅。この地域で戦争を経験した平良栄子さん91歳です。

当時14歳だった栄子さんは、学徒として動員。高齢のため記憶が薄れてきている中、26年前、戦時中の体験を手記にして残しています。

平良栄子さん(91)
Qこれをどんな気持ちで書いたんですか
「またこういう戦争をやってほしくないって気持ちですね。(戦場を)逃げ回って歩いて、大変だったんですよ。だからこれ以上戦争をなくしたほうがいいって、いつも思っていた」

手記には、南部での出来事が詳細に書かれていました。

手記の一文
「“めしあげ”の仕事をしていました。敵の偵察機が低空で飛んできて、命がけの仕事でした」
「重傷の兵士には、薬物や手りゅう弾が1個ずつ与えられました」

ガマの中では、栄子さんのそばにいた兵士が自ら命を絶つことも…。

平良栄子さん(91)
「私の耳のそばで「シュー」って音がしたんです。そしたら自分で手りゅう弾を打ち込んで亡くなったんです。もう生きる見込みがないって思ったんでしょうね」

自宅近くのガマを転々としていた栄子さんは…。

手記の一文 
「ビー玉ぐらいの弾が目の前に飛んできて、右肩のつけ根に当たった」
「手術を麻酔なしで受け、当時14歳の私は『もうやめて、痛いよ、痛いよー』と大声で泣いていました」

平良栄子さん(91)
Q一番思い出すことは
「やっぱり両親がそばについていないってことですね。寂しいですね、それは…、まだ子供ですからね。14歳って言ったら。分かりませんよね、(戦争が)いつ頃終わるか。だからいつも寂しい悲しい思いをしながら、頑張らなくちゃって気持ちでやってきた」

終わりの見えなかった沖縄戦ですが、最後はアメリカ軍の捕虜となりました。

手記の一文
「初めて見る敵兵。ギプスを巻かれ、包帯の上に青のマジックで“6月25日”と明記されました」

その1か月ほど前。南部での被害拡大のきっかけとなる旧日本軍の決断が下されています。いわゆる“南部撤退”です。

首里城公園の近くにある雑木林を下っていくと、第32軍司令部壕があります。当時アメリカ軍が首里まで迫ったため、この司令部壕で沖縄戦を指揮していた牛島満司令官が南部撤退を決断します。

司令官の孫で、東京都内に住む牛島貞満さん68歳。祖父がなぜ住民の犠牲を増やす決断をしたのか調べています。

牛島司令官の孫 牛島貞満さん(68)
「牛島満の命令によって沖縄戦が終わらなかったんだという展示があった。それを見てちゃんと学ばないといけないと思って」

牛島さんは自身が調べた沖縄戦を学校関係者らに語っています。

牛島司令官の孫 牛島貞満さん(68)
「天皇を守る、天皇を中心とする政治体制を守るのが日本軍の役割だった。大本営から降りてきた命令は持久戦です、本土決戦の準備の時間稼ぎということです」

牛島司令官らは時間稼ぎのため、南部に撤退。さらに…

牛島司令官の孫 牛島貞満さん(68)
「『最後まで敢闘し、悠久の大義に生くべし』6月19日に第2の作戦命令が出ます」

この命令によって、牛島司令官が自決した後も沖縄で戦闘が続き、降伏の調印式が行われたのは9月7日のことでした。

牛島司令官の孫 牛島貞満さん(68)
「(牛島司令官は)本土決戦準備のために、沖縄の住民と32軍は犠牲になっても仕方がないと。そういう意味では天皇に対する忠誠心が高かったんだろうと思います。それが戦争を長引かせた原因」

戦争の犠牲となる住民。ウクライナ侵攻が今も続いている要因についても…。

牛島司令官の孫 牛島貞満さん(68)
「国の大義が人々の命より重たいと思っていることで、なかなか戦争が終わらないということ。沖縄戦の場合は天皇を守る、天皇のために尽くすってことが大義になっていた。ロシアにしてもウクライナにしても、国の大義が全面に出ていて戦争継続の理由になっているのは間違いない」

住民の命よりも、天皇や国を重視する考えが戦争を長期化させると指摘する牛島さん。
沖縄戦から学ぶべきことを尋ねると…。

牛島司令官の孫 牛島貞満さん(68)
「命どぅ宝、命こそが一番大事なんだということが沖縄戦の教訓」