沖縄戦当時、日本兵の看護にあたり、戦後はその体験を語り継いできた元なごらん学徒隊の上原米子さんが11日、老衰のため亡くなりました。96歳でした。
上原米子さんは1926年11月25日、恩納村山田で生まれ、沖縄戦では県立第三高等女子学校の生徒10人から成るなごらん学徒隊の一員として、本部町の八重岳にある野戦病院で負傷兵などの看護にあたりました。
平和学習を行う上原さん
「ロウソクの明かりで軍医の手を照らして。今はちょっとの怪我でも麻酔してね、痛くないようにしてから、手術しますけど、あの頃は麻酔もないんですね」

戦後は40年以上にわたって小学校の教員を務め、退職後は自身や友人が沖縄戦で目にした光景を絵に描いて、戦争の実相を伝える活動に尽力しました。
上原米子さん
「語り部をなかなか出来ない人もいますので、その人たちの代わりにもやって、2度と自分たちが体験したような戦争を起さないようにしたいと思う」

長男の上原誠さんにりますと、米子さんは元なごらん学徒の最後の語り部として、2020年ごろまで平和学習を続けていたということですが、11日にうるま市の病院で老衰のため亡くなりました。
96歳でした。
恩納村で13日に告別式が開かれ、親族や元同僚らが最後の別れを惜しみました。
長男 上原誠さん
「戦争の絵に関しては、本当に記憶に焼きついたものを残さなきゃいけないという使命があったみたいですね。それでかなりグロテスクな絵もあるが、やはり伝えたかったというのがとても強かったと思う」
教員時代の同僚 伊波勝雄さん
「戦争のむごたらしさを語り継ぎたいということを、口だけではなくて、絵の質にまで人柄が表れて、ああいう人に訴える絵を描いたんじゃないかな。惜しい先生を無くしたという思いでいっぱいです」
県内ではことしに入って元白梅学徒の中山きくさんや、元ひめゆり学徒の本村つるさんが亡くなるなど、沖縄戦の実相を伝えてきた語り部が相次いで亡くなっていて、戦争の悲惨さを次の世代にどう伝えていくのか大きな課題となっています。