ニューヨーク発ソウル行きの大韓航空007便がサハリン沖で旧ソビエトの戦闘機によって撃墜され、日本人28人を含む乗客乗員269人全員が死亡した「大韓航空機撃墜事件」から、9月1日で40年となりました。東西冷戦のさなかで起きた、悲劇の1つとして数えられるこの事件。
国家や民族同士の対立が、関係のない民間人の命を奪う理不尽な出来事は、今なお世界中で起きています。
1983年9月1日 大韓航空機がサハリン付近で…
「大韓航空機がサハリン付近で消息を絶った」。
40年前の9月1日朝、通信社などからの情報で、HBCはすぐに記者・カメラマンをサハリンの対岸、稚内市に派遣。捜索に向かう巡視船や対策本部となった稚内海上保安部の様子をニュースで伝えました。HBCのアーカイブには、当時の様子がわかる映像が残っています。
浮き彫りとなる米ソ対立
その翌日には、アメリカ政府が「大韓航空機はソビエト軍機のミサイルで撃墜された」と発表し、世界中が衝撃に包まれます。これに対してソビエト政府は「領空を侵犯してスパイ飛行をしていた」などと反論。米ソの対立が、あらわになりました。