五十嵐はいつものように官舎の前で待っていた各社の記者らを自宅に招き入れてくれた。五十嵐は特捜部長就任からすでに2年が経過していたこともあり、記者らに「もうそろそろ私もお役御免です」と異動をほのめかしていた。

こうした中、夜回りに来た記者の間には「五十嵐さんが特捜部長の任期中には、もう新たな事件には着手しない」というムードがひろがり、五十嵐から見ても「これまでの延長で務めとして、夜回りをしているだけというムードに満ちていて、緊張感に欠けているな」と感じていたという。その日、自宅にはテレビゲームがあった。それは娘さんが買ってきた「哭きの竜」というマージャンゲームで、そのころ出回ったばかりのもので、記者らも五十嵐からやり方を教わりながら「哭きの竜」にふけっていた。

その少し前、五十嵐は霞ヶ関の検察庁を退庁する直前、ぎりぎりの時間に、特捜部員全員に対して理由を言わず「あす土曜、午前9時にいつもどおりの服装で出勤すること」と告げていた。
すでに退庁していた検事が3人いたため、五十嵐は恵比寿の官舎に帰宅してすぐ、3人の検事宅に電話し、各夫人にその旨を伝えた。ただし、「自宅には記者諸君がいるので私への返事は不要です」と念を押した。五十嵐はすでに官舎の前で待っていた筆者らには、「10分後に呼ぶから待ってほしい」と伝えた上で、中に入っていた。この「10分間の待機」の間に、五十嵐が電話をかけていたことは、この時は知る由もなかった。

五十嵐特捜部長(当時)

当時、記者らが五十嵐の自宅に上げてもらうことは常態化していた。背景としては、前年の冬頃までは官舎から坂を降りたところの大衆居酒屋「白木屋」に行き、懇談をすることが多々あったが、これが終わると各社がさらに3分間づつの「個別取材」を五十嵐に申し入れていたため、「白木屋」だけでは終わらなかったからだ。また「寒い中で記者のみなさんに待ってもらうのは気の毒なので」という五十嵐の温かい心遣いから、自宅に上げていただくことが慣例となっていたのだ。3月5日の夜も、そうした五十嵐の自宅で記者との間で交わされる「いつものワンシーン」として過ぎていった。

何度思い出しても、「政界のドン」金丸への強制捜査を目前にした指揮官の緊張感を一切感じさせない、穏やかなやりとりだった。五十嵐は30年前のこの夜の出来事を振り返り、「翌日を控え、私もそれなりに皆さんの動向を気にしていました」と打ち明けてくれた。五十嵐の佇まいは、翌日に大勝負を控えた不退転の決意を全く感じさせない、完璧な身のこなしだった。

「政治家を特別扱いした」・・検察バッシングはピークに

ここで当時の検察を取り巻く状況に触れておきたい。前年の1992年9月、「東京佐川急便」から金丸への別の5億円のヤミ献金が発覚、金丸は出頭を拒否したが、容疑を認める上申書を提出。これを受けて特捜部は金丸を「罰金20万円」の政治資金規正法違反で「略式起訴」処分にして、捜査を終結していた。これにより金丸周辺のヤミ献金に関しては一定の捜査が終わり、区切りがついたとの見方が有力だった。
しかし、世間はこれに納得せず、「5億円も受け取っていたのに、金丸本人から話も聞かずに、わずか20万円の罰金で済ませたのは特別扱いだ」として、激しい検察批判が湧き上がった。

怒った男性が検察庁入口の石碑に「検察は正義を行っているのか!」と叫び、ペンキを投げつける事件も起きた。裁判で男性は「巨悪の摘発を特捜部に期待していたのに、裏切られた」との主旨の動機を述べた。また一般国民が捜査をチェックする「検察審査会」も、金丸の処分について、見直しを求める判断を示すなど、検察への不信感は一気に高まっていた。

検察庁入口の石碑に掛かられたペンキ 1992年9月

検察がこうした世論の批判を浴びる中、実は水面下で東京地検特捜部の盟友、国税庁・国税局が金丸に帰属すると見られる「ワリシンの取引記録」という、新たな一筋の光を見つけていたのだ。
原資はゼネコンからの巨額の献金だった。国税は急死した金丸夫人の遺産相続の税務処理にも注目した。
そして1993年の年明け、この情報は「一枚のチャート」として特捜部長の五十嵐に持ち込まれ、五十嵐は国税という強力なパートナーからの情報提供をきっかけに、検察の威信をかけた「起死回生の勝負」に挑んだのである。(#2につづく

TBSテレビ情報制作局兼報道局
「THE TIME,」プロデューサー
 岩花 光

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