山本申三さんの日記:
「親を呼ぶ子供あり、子を呼ぶ親あり、何たる悲惨ぞ」

長野を出て丸1日、ようやく東京に着くと、目に飛び込んできたのは、焼野原となった首都の姿でした。

本部の命を受け、山本医師は、皇居前の臨時の救護所に向かいます。


山本申三さんの日記:
「百余畳の天幕2個の中には数百名の患者、ベッドを並べてわめいている」

救護所の様子が映像に残っていました。

簡易ベッドには乳飲み子を抱えた女性や包帯を巻いた子ども、その間をせわしなく歩く医師や看護師たち。

山本医師の日記には、そのほとんどが、やけど患者だったと記されています。

救護隊の活動についてこんな記述もありました。

山本申三さんの日記:
「一行は赤十字として日本一に早く馳せ参じたので評判が善い」

関東が広く被災し、交通網が寸断される中、被災を免れた信越線でいち早く応援に駆け付けたのが長野赤十字の山本医師の隊だったのです。

家族が受け継ぎ、保管してきた当時の災害医療を伝える日記。

長野市公文書館では、「長野県が被災地救護で重要な役割を担ったことを示す非常に貴重な資料」と分析しています。