◆レーダーをかいくぐって飛行した旗生少尉


アメリカ側の資料をさらに読み込むと、「50フィート」という文字がありました。50フィートは、約15メートルです。旗生少尉が乗った機体は、敵のレーダーに見つからないよう海面から15メートル付近を這うように飛行していたことが分かります。

「豊の国宇佐市塾」織田祐輔さん
「15メートルって家の3階くらいの高さ。家の3階くらいの高さだと目標物見つけることはできない。その状況でアメリカ軍のレーダー網をかいくぐって、かつ沖縄近海の米軍のところまで旗生少尉はナビゲーションできています。人生の最後。自分が生きてきた人生の全てを最後のこの一瞬に賭けているので、自分が生きた証、最後の総決算、持ち寄る力を全て出し切ってこういう風になったのはないか」


◆旗生少尉の機体とみられる映像


旗生少尉が乗っていたとみられる機体の映像も見つかりました。特攻の約2週間前1945年4月15日にアメリカ軍が撮影したものです。

「豊の国宇佐市塾」織田祐輔さん
「旗生少尉の飛行機をめがけてダダダっと撃っている。弾がパパッと飛んでいっているのが分かります」

旗生少尉の機体は、宇佐から鹿児島県の串良基地に進出した際、誘導移動中にアメリカ軍から攻撃を受けました。この時のことが日記に書かれていました。

旗生少尉の日記(1945年4月16日)
「昨日は危機一髪でした。着陸して飛行機を掩体壕に誘導中不意に敵襲を受けたのです」

「豊の国宇佐市塾」は、この日記などを元に、機体を特定したといいます。

「豊の国宇佐市塾」織田祐輔さん
「旗生少尉の日記と、当時一緒に移動してきた他の隊員の証言と合わせて、3機目に旗生少尉が乗っているのが分かったという次第です」


◆死を覚悟して綴った敏子さんへの思い


死を意識したのか。22歳だった旗生良景少尉の日記はアメリカ軍から攻撃を受けた翌日から始まります。

1945年4月16日 旗生少尉の日記
「遺書も何も残していなかったことを思い出し、遺書と言ふような堅いものでもなしに、日記のつもりで出撃の日迄私の生活、気持ちを書いて置きたいと思ひます」(中略)「(敏子は)心から私が愛したたった一人の可愛い女性です。純な人です。私の一部だと思って何時迄も交際して下さい。葬儀には是非呼んで下さい」(中略)「お父さま、お母さま、本当に優しく心から私を可愛がって頂きましたこと有難く御礼申します。この短い文の中に私の全ての気持ちを汲んで下さい。これ以外のことを言ふのは水臭く妙な感じがすると思ひます」