“リズム”が日本のスプリントハードル全体のレベル向上に

日本の110mハードルは、男子400mハードルに比べ世界との距離が大きかった。00年代に谷川聡が13秒39の日本新をマークし、内藤真人と田野中輔が世界陸上準決勝まで進出したが、110mハードルの決勝を日本人が走る姿はイメージできなかった。09年の世界陸上ベルリン大会を最後に、代表も派遣できなくなった。

その状況を打破したのが矢澤さんで、16年リオ五輪代表入り。種目全体に刺激を与えた。17年世界陸上ロンドンでは増野元太が準決勝に進出。18年に金井さんが13秒36と、谷川の日本記録を14年ぶりに更新して時代を動かした。19年には髙山、泉谷が前述のように13秒36の日本タイ。そこから髙山が13秒25まで日本記録を縮め、同年の世界陸上ドーハ大会で準決勝に進出。予選で13秒32の海外日本人最高タイムを出し、決勝進出も期待できるレベルに110mハードルを押し上げた。

そして21年に金井さんが13秒16、さらには泉谷が13秒06と、世界大会決勝で戦うレベルまで日本記録を更新した。

実は女子の100mハードルも、男子同様に活況を示している。19年に寺田明日香(33、ジャパンクリエイト)が12秒97と日本人で初めて13秒の壁を破ると、青木益未(29、七十七銀行)と福部真子(27、日本建設工業)が日本記録を更新し、今季は田中佑美(24、富士通)、清山ちさと(32、いちご)も加えた5人が12秒台を出すまでになった。

「ハードルはリズムの競技だからです」と矢澤さん。「記録を出した選手の速いリズムを近い位置で経験していれば、それが普通になってくるんです。記録を出した選手当人も、例えば金井が13秒3台で一度走ったら、13秒5とか6の走りができなくなる」

矢澤さん

金井さんもその意見に同意する。
「ハードルは踏み切りの角度で全部が決まってくるんです。その角度を1回つかむと、以前の角度ではブレーキをかけているような感覚になって、気持ち悪くなってしまう。『何、その踏み切り?』って」

矢澤さんによればリズム自体は選手によってタイプがあるので、似たリズムの選手しか直接的に参考にすることはできない。ただ、特に今の女子ハードルは、中盤まで差がつかずにレースが展開する。以前は6台目までだったが、次は7~8台目まで、その次は9台目までと、ついて行ける台数が伸びると、選手は自身のトレーニングをどうすれば追いつけるかがわかってくる。日本の男女スプリントハードルはこうして過去最高レベルを実現し、ブダペストで世界に挑もうとしている。

決勝に行くのが日本ハードル界の“ミッション”に

矢澤さんは今季の泉谷を、「限りなく欠点が少ない選手になった」と見ている。

「以前は浮くことがあったり、ぶつけたらバランス崩したり、ということがあったんですが、それがもう欠点と言えないレベルになっています。混成競技みたいですね、飛び抜けて不得意なことがない、という部分は。跳躍力もあるし、スプリント力もあるし、柔軟性もある。唯一ケガが多いことが欠点ですが、それも力の発揮能力が高いことの裏返しです」

東京五輪、世界陸上オレゴンと準決勝でパフォーマンスが下がったように、世界大会で力を発揮できないことが弱点だった。だが今季のDL2試合を見ると、そこも改善されている。「その経験は大きい」と金井さんも泉谷の世界陸上前の取り組みを評価する。

「今回のDL転戦では世界陸上の決勝に絡む選手と走っています。相手に調子の良し悪しはあったと思いますが、前半は前に出られるな、とか、自信を持つことができたと思うんです。後半がどうだった、という部分も含めて、全てが世界陸上の準決勝に生きる。準決勝のスターラインに立ったとき、走ったことがない相手が多いのと、競り合ったことがある選手が多いのでは、まったく違います。世界大会の準決勝のレース前は、予選ではわちゃわちゃしゃべっていた選手たちが、誰もしゃべらなくなる。そういう緊張感にも対応できる」

金井さん

髙山にも「決勝進出の可能性がある」と、矢澤さんは期待している。
「高山選手は今年は海外転戦をしていませんが、アジア選手権は海外自己最高(13秒29・+0.6)で優勝しました。再現性というところが高くなっています。国内レースでは予選でスイッチが入らないこともありますが、日本の準決勝でやっていることを世界陸上の予選でして、日本の決勝でやっていることが準決勝でできれば決勝も行ける。髙山選手も半分くらいは知っている相手だと思いますが、練習でやっていることをそのまま出すことに集中すればできるタイプです」

2人に決勝進出の可能性があるブダペストの110mハードル。「東京五輪までは決勝は日本選手の夢でした」と、この種目を世界に戦うレベルに押し上げることを考え続けて来た矢澤さんは言う。

「しかし今は夢じゃなくなりました。達成されるべきミッションの1つです。決勝に行くのは当然だと、僕は思っています」

日本の110mハードルが世界で戦うレベルになった。そこに心血を注いできたOBたちの夢と一緒に、泉谷たちがブダペストでハードルを越えていく。

(TEXT by 寺田辰朗 /フリーライター)