水道タンクと同じく国の登録有形文化財に指定されている「予備発電機室棟」です。その中にあるのは…

「これが、ここから200メートルくらい先に落ちた焼夷弾。焼夷弾の流れ弾が来たのがこの上、屋根だけはトタンなんですよ。トタンを突き破って落ちた痕、補修した痕。色が変わっている、新しいのに入れ替えて…」

78年前の8月1日夜 長岡の街を襲った空襲

1945年8月1日午後10時半、アメリカの爆撃機・B29が長岡の街に16万発余りの爆弾を投下。一夜にして市街地の8割が焼け、1488人もの人が犠牲になりました。

水道タンクを始めとするコンクリート製の施設は焼失を免れましたが、予備発電機室棟の屋根には焼夷弾が貫通した痕が残っています。

【小林善雄さん(84)】
「長岡の中心市街地の約8割が空襲で焼けたんです。私たちは今、水道タンクにいますが、私の当時の家からこの水道タンクまで逃げてきました」

小林さんが「土手に上がったときの風景が、この風景」と言って説明してくれたのが小林さんと同じ場所に逃げていた友人が描いた絵です。無数の焼夷弾を投下するB29と街を覆う炎。そして、その炎から逃げようと土手を目指す人々が描かれています。当時、多くの人が水道タンクを目印に避難したそうです。

―どうして、みんな水道タンクを目指したのでしょうか?
「土手に上がる目標がタンクで、昔からタンクそのものが長岡の水の発祥の地で。あれを目がけて…」