78年前と現在をつなぐ あの夜の「生き証人」

ボランティアで公園の整備や案内役を続けてきた小林善雄さん(84)。空襲で家族は無事でしたが、住む家と一家で営んでいた海産物店が焼けたといいます。

家業を失った父親はその後、賭け事に溺れ、母は出稼ぎで県外へ…家族はバラバラになりました。

「小学校1年生、6歳でしたからね。3年生か4年生になってわかりましたね。おふくろがなんでいないのか、って…」

小林さんは弟にご飯を食べさせるため牛乳や新聞の配達に勤しみましたが、貧しく苦しい生活でした。

「一番わかったのは修学旅行ですね。自分で稼がないと靴もなかったし、レインコートもない。その時はお金がなかったので、友達から借りて修学旅行に行きました」

人々の命を奪っただけでなく、生き延びた人たちの人生にも暗い影を落とした長岡空襲。水道タンクはそんなあの夜の「無言の生き証人」、小林さんはそう話します。

「きのう、ここに来た近くの80歳の人が『ここへ来ると長岡の空襲の匂いがする』って言うんですよね」

小林さんが毎日欠かさずに水をやる花は鮮やかに咲き、5月には250匹もの鯉のぼりがタンクの周りを泳いで訪れる人たちの心を和ませています。

【小林善雄さん(84)】
「空襲のシンボルでもあるし、市民のシンボル。絶対に、どうあっても残していきたい」

「水道タンク友の会」は高齢などを理由にメンバーが減っていて、「多くの人に水道タンクの歴史を知ってもらい、後世につないでいきたい」と小林さんは話します。

1488人が亡くなり、多くの人の人生が変わった夜。あれから78年が経ちました。
78年前と現在をつなぐ水道タンク。そんな記憶の生き証人は今も長岡の街を見つめ続けています。