不自由な右手で自分の爪を切れるように

母親が心の支えだった松谷さんにとって、転機となったのは被爆者の仲間たちとの出会いです。

被爆者団体の草分け的存在「長崎原爆青年乙女の会」に、中学生ごろから参加するようになりました。

原爆で傷ついた者同士、辛い思いを共有するだけでなく、自立することの大切さも学びました。
松谷 英子さん:
「ものすごくよくしてくれる友達がいて、その人に甘えて『ごめん、爪ば切って』ってお願いしよったんですよね。
そしたら、もう一人の友達が『自分のことは自分でせんばね』って」
宮崎 香蓮さん:
「あ、え、厳しい…結構。私は、厳しい言葉だなっていう風に感じるんですけど」
それは、原爆で家族全員を亡くした友達の言葉でした。

松谷 英子さん:「できんとやっけん、切ってもろうて当たり前ぐらい、やっぱ思うじゃないですか。悔しくてたまらんやったけど、ずっと生活していく上で、あぁ、やっぱりね、自分のことは自分でせんばいかんね、と思いました」

不自由な右手で持ったカミソリで左手の爪をきれいに切れるようになるまで、何度、指を怪我したか数え切れません。