専門家が指摘する氾濫の理由「縄文時代には海だった」
東北大学災害科学国際研究所 高橋尚志 助教
「内陸だが、かなり低平な低地と呼ばれる地形が広がっていて、ここで氾濫が起きた」
高橋助教は、出来川の氾濫には川が流れている大崎平野の地形に要因があるといいます。
東北大学災害科学国際研究所 高橋尚志 助教
「ここはもともと海が、約7000年前に縄文時代に海が入っていて、そこに鳴瀬川や江合川の土砂が流れ込んで来てその海を埋め立てるようにしてできた土地だった」

歴史を遡ると、大崎平野の一部は海でした。美里町には、今もその証拠が残されています。
東北大学災害科学国際研究所 高橋尚志 助教
Q、素山貝塚とありますがどうしてこんな所に貝塚が?
「貝塚というのは、縄文人が貝を食べた後捨てるゴミ捨て場。この近くまで海が入っていて、縄文人が貝殻を捨てたんだと思います。なので、ここは内陸だがこの近くまで海が入っていたという証拠」

高橋助教によると、およそ7000年前の縄文時代には素山貝塚の近くまで海でした。貝塚には、縄文時代の人々が貝を食べた後に捨てた貝殻が今でも残っています。

東北大学災害科学国際研究所 高橋尚志 助教
「大崎平野で去年氾濫があった場所は、縄文時代に海だった場所がその後、江合川や鳴瀬川が運んだ土砂によって埋め立てられてできた沖積低地という場所になっている」
浸水被害が起きやすい「沖積低地」と呼ばれる地形。地域には、水害が繰り返されてきたことを証明する石碑が建立されています。