1972年5月15日、沖縄本土復帰の日。一部では「悲願が叶い、多くの県民が喜びに包まれている」と報じられたが、日米両政府が進める「復帰」のあり方に強い疑問を呈し、あえて復帰に反対する意思表示をした沖縄の若者たちがいた。彼らが51年前に起こした「事件」は今の沖縄のありようと、私たち日本人に、一体何を問いかけているのだろうか。

■国会爆竹事件とは何か

沖縄が本土へ復帰する半年ほど前、沖縄返還協定が批准される「沖縄国会」(1971年10月19日)で佐藤栄作首相の演説中に事件は起きた。国会の傍聴席にいた若い男2人女1人が、次々に爆竹を鳴らし、ビラを捲き、「沖縄返還協定粉砕」を叫んだ。
現行犯逮捕された3人はいずれも沖縄出身で“沖縄青年同盟”という組織に属していた。沖縄がまだ米軍統治下にあった当時、渡航証明書、つまりパスポートを携えて沖縄から本土へ、大学進学や集団就職で渡った青年たちが集う組織だった。

当時、本土の一部では沖縄出身者に対する差別や偏見があった。飲食店のなかには「沖縄の人おことわり」の貼り紙をしたところもあったという。そうした経験を共有した若者たちは、本土「復帰」が果たして本当によいことなのかどうかを疑った。

■51年を経て当事者たちが初めて取材に応じる

国会爆竹事件に直接関わった当事者に会うまでには、かなりの歳月を要した。3人のうちの1人、本村紀夫さん(73)が事件から51年を経て初めてテレビのインタビューに応じた。
本村紀夫さん(事件当時22歳):
「ヤマト(本土)に行って一番感じたのは、日本人は沖縄のことをよく理解していて『沖縄は戦争で犠牲になって大変だな』って言ってくれるだろうと思ったら、全く違う世界。よく『日本語うまいね』とか『英語喋れるの』とか言われました。だんだん怒りが増してきて、何なのって話になっていく中で(仲間と)知り合いました。何かしなきゃいけないっていう」
当時、沖縄青年同盟のリーダーだったのが仲里効さん(75)だ。あの国会での出来事が、今現在に至るまで絶えず自分の生き方を問い直していく「原点」になっているという。

仲里効さん(事件当時24歳):
「声明文がこれなんですけどね。『全ての在日沖縄人は団結して決起せよ』と。これは僕が書きました」

国会爆竹事件で実際にまかれたビラが、何と1枚残っていた。
金平キャスター:「在日沖縄人」という言葉を使いましたけども、日本から『お前たちは本当の日本ではなくて、他者なんだ』という扱いをうけたということですか?

仲里さん:
「そうですね。他者として日本から扱われる、見られる。いわゆる眼差しの政治というか、そういうものがありますけども、逆に自ら選び直していく。自らの主体を作り、創造していく(沖縄人)という意味も込められて『在日』という(表現が)あるわけですね」