19日から始まるG7広島サミットで、各国の首脳が訪れる予定の平和公園周辺では、多くの子どもたちが原爆の犠牲になりました。広島の学校の中で最も多くの犠牲を出した女学校があります。原爆は生徒たちの何気ない日常を奪いました。
平和公園(広島市中区)すぐそばに「E=MC²」と刻まれた碑があります。広島市立第一高等女学校の慰霊碑です。現在の舟入高校の前身で「市女」と呼ばれ親しまれていました。
広島市に住む加藤八千代さん(94)は、市女の卒業生です。加藤さんが入学したのは太平洋戦争が始まる1941年でした。

加藤八千代さん
「楽しい学校でしたよ。みんな明るくて」
すでに日中戦争が始まっていましたが、市女には楽しい思い出が詰まっています。
加藤八千代さん
「1か月に1度、全校生徒が集まってね、音楽のレコード鑑賞があった。秋には、大きな音楽会があって、呉の海軍軍楽隊がバスで来てくれた。楽しかったんですよ」

家庭にレコードやテレビがない時代。学校の行事が楽しみの一つでした。
河村綾奈キャスター
「女子高ならではの空気感とかも当時はあったんですか?」
加藤八千代さん
「やっぱり今と同じと思いますね。みんなでおしゃべりして。お弁当持ってくでしょ。そしたら、はしを持ってね、ぐるぐる歩く友達がおる。『あ、卵があった』ってちょっとつまんで。でも、みんな、それはもうみんな承知のことだから『はい、どうぞ』って。『一つならあげるよ』って」
しかし、戦況が悪化すると生活は一変しました。加藤さんも1944年から軍需工場へ動員されました。そして、1945年8月6日、この日は工場が休みでした。加藤さんは友達と宮島に遊びに行く約束をしていました。待ち合わせ場所の己斐駅にいたときにでした。
加藤八千代さん
「そこまでは記憶があるんです。それから先が吹っ飛んだんですね。8時15分で。気がついたときには、本当に真っ暗なんですよ。暗いと言っても本当に夜中のような暗さ」

加藤さんに大きなけがはありませんでした。しかし、広島市中心部を見てみると、広島は火の海になっていました。