入賞を逃した世界陸上オレゴンから

世界陸上オレゴン金メダルのマッシモ・スタノ(31、イタリア)や銀メダルの川野は、野田は一緒に歩いていて4分05秒ペースにも余裕を持てていると感じられた。

「外国選手や川野は20km競歩の自己記録が高い。35kmにも20kmのスピードが必要」

その認識で今年2月の日本選手権20km競歩(神戸)に出場。雨と風の悪天候で自己記録更新はできなかったが、オレゴン銀メダルの池田向希(24、旭化成)と、日本選手権6回優勝の高橋英輝(30、富士通)に次いで3位に入った。

野田選手

「神戸の時点で4分05秒ペースに対して、速いとは思わなくなっていました」

そうなるまで野田が取り組んだのは、歩く動作の徹底的な追求だった。競歩にはベントニーとロスオブコンタクトの2つの歩型違反があり、18年に50km競歩の日本記録を出した頃の野田は「雑でした」と反省する。

「周りから『怪しいんじゃないの』と言われる歩型でした。他の人の歩型の良し悪しはわかりませんが、自分の動きは動画で見て『ダサいな』とわかります。わかっていても、なかなか変えられなかった。今は修正すべき点を、どうコントロールすればいいかわかっています。そのあたりは成長しているのかな」

谷井コーチはスピードが上がったと判断し、神戸の後は「どちらかというとロング系」のメニューを多く行った。スピード系のメニューは「頻度こそ少なくなったが、設定タイムは高くした」という。「ペースに対する動きの安定感が出てきました」。

野田は18年に輪島で行われた日本選手権50km競歩に優勝し、10月の全日本競歩高畠大会で50km競歩の日本新をマークした。だが、その後は国内大会でも一度も勝てていなかった。歩型が不安定で、勝負に出たときに審判から注意や警告を出されると、それ以上スピードを上げられなかった。そこが世界陸上やオリンピックでメダルを取る選手たちとの違いだった。

野田は「これでもか、というくらいの練習」ができたと感じて、自信を持って輪島のスタートラインに立ち、一番の目標だった優勝を達成した。日本選手権など国内強豪選手全員が出る試合で勝つことが、「自分自身が変わった」ことの証明になった。

ブダペストで師弟メダリスト誕生へ

今大会の野田の記録は世界歴代3位。オレゴン銀メダルの川野も破った。8月の世界陸上ブダペストではメダル候補の1人に挙げられる。谷井コーチは日本人初の競歩種目メダリストで、野田がメダルを取れば選手とコーチがメダリストとなり、競歩種目ではこれも日本初の快挙だ。

(左から)丸尾、野田、川野選手

野田はブダペストへの意気込みを次のように話した。

「東京五輪の選考会の輪島(21年日本選手権50km競歩)で4位と負けたことが、ものすごく悔しかったんです。その悔しさで昨年の輪島も戦いました(日本選手権35km競歩3位でオレゴン代表入り)。しかしオレゴンを歩いてみたら相手にされなかった。今度こそメダル争いをできるように、ケガや体調不良には気をつけながらしっかり準備していきます」

谷井コーチは「メダルが目標になりますが」と前置きをしつつ、意識すべきことは他にあると言う。

「野田はすごくマイペースなところもありながら、やるべきことをしっかり見つめて、ひたむきにトライできる選手なんです。足元をもう一度見直して、やるべきことをやった結果(メダルが)ついてくればいい。そのやり方が野田の強さなんですから」

やるべきことの1つに、谷井コーチとのコミュニケーションがある。19年2月に谷井コーチが現役選手生活にピリオドをうち、指導者としての活動に専念した。当初は「谷井さんは選手としてのイメージが強かった」と野田。ライバルでもあったのだから当然だろう。

その後は徐々に、選手と指導者としての関係が強まっていく。今は「谷井さんの存在が大きい」と明言するに至った。

「練習にずっと付いていただき、動きを見ていただいて、すぐにフィードバックしていただいています。自衛隊体育学校という素晴らしい環境があって、谷井さんにずっと見ていただける。本当にしっかり恩返しをしないといけないです」

8月の世界陸上ブダペストが、野田にとって“恩返し”の舞台となる。

(TEXT by 寺田辰朗 /フリーライター)