「どこもかしこも穴を掘って遺体を入れとった」次々と息絶える被爆者 火葬が追いつかず遺体は広場に穴を掘り埋葬していた

戦前から似島に住む 冨士井和子 さん(92)。14歳だった冨士井さんは1945年8月6日、父親に用事を頼まれ、島を渡って現在の皆実町(広島市南区)の親戚の家に立ち寄っていたときに午前8時15分を迎えました。

冨士井和子 さん
「ピカーって光って そのあと雨がジャーと降った。それは覚えとる」

爆風により家中の窓ガラスは割れましたが、建物は無事で、冨士井さんにもけがはありませんでした。島に帰るため港を目指しましたが、道は負傷者で一杯だったといいます。

冨士井和子 さん
「やけどした人がいっぱい歩いとった。ひどかったね、あのときは」

港に着き、負傷者を似島へ運ぶ船に乗ることができました。しかし、船からはうめき声も聞こえず、冨士井さんは遺体が運ばれていると思ったといいます。日が落ちたあとに似島へ帰ることができましたが、見慣れた光景はありませんでした。検疫所の中も負傷者であふれかえっていました。

冨士井和子 さん
「いっぱい寝とったんよ。どの部屋も、どの部屋もね。みんな寝とったんよ。お母さんもおる、子どももおる、みんな、向こう宇品(広島市)から運んできたんじゃけぇ」

8月6日以降、似島では遺体を焼く火や煙が絶えず見えたといいます。そして、火葬が追いつかなくなると、防空壕や広場に穴を掘って遺体を埋めていました。

冨士井和子 さん
「道は人が歩いてできんけぇ。草が生えているところ、どこもかしこも兵隊さんが掘りよった。山のほとりに穴をほって、遺体を入れよった。大八車に積んじゃ、積んじゃ、行ったんよ」

数えきれない遺体が似島で葬られました。戦後直後から2004年までに島の人たちや広島市の調査によって多くの遺骨が掘り出され、供養されてきました。ただ、まだ掘り出せていない場所があると証言する住民もいました。