■“台湾野球の父”近藤兵太郎とは何者なのか?
愛媛県松山市出身の野球指導者・近藤兵太郎。
そのルーツは、甲子園春夏通じて7回全国を制覇し、「野球王国えひめ」の礎を築いたとされる松山商業高校野球部です。
兵太郎は、1918年(大正7年)に松山商業高校野球部の初代監督に就任すると、翌年1919年には早くも四国大会を制覇し、初の甲子園出場、さらにベスト8にまで導きます。
しかし、その年の9月、兵太郎は知り合いの教諭からの誘いを受け、突如、台湾行きを決めます。
現地で教員免許を取り簿記の教壇に立つ一方、野球への情熱は捨てられず、
夏休みはコーチとして松山で母校を指導。
松山商業は初出場から6年連続で全国に駒を進め、黄金時代を打ち立てました。
ところが1925年に四国7連覇を阻まれコーチから退くと、兵太郎は今度はその情熱を台湾野球に注ぎます。

1931年(昭和6年)、同僚の教師に頼まれ嘉義農林学校(現在の国立嘉義大学)の監督を引き受けるのです。
そして、前述の3民族からなるチームをまとめ上げ、わずか1年で甲子園決勝まで導くと、その後も春夏合わせて5回の甲子園出場を果たします。
こうした功績から兵太郎は“台湾野球の父”と讃えられています。














