大熊には数回しか行ったことがないけれど・・・

後藤愛琉(あいる)さん「みんなでやる授業がたまにあるので、そういう授業が楽しい。好きなように学べるのがいいところ」

4年生の後藤愛琉さん(10)。震災の後に生まれたため、両親が住んでいた大熊町で生活をしたことがありません。

後藤愛琉さん「(震災のことは)あまりわからないけど、津波とか大変なことがあったのだと思う。(大熊町には)やさしい人がいて、みんなが学校に行けばにぎやかな町になるのではないかと思う」

後藤さんにとっては5回ほどしか行ったことがない、あまり馴染みのない遠く離れた「ふるさと」。避難先の猪苗代町と会津若松市にある学校の間を、タクシーで30分ほどかけて通うのが「日常」です。

その一方で、母の仁美さんは震災当時のことを鮮明に覚えているといいます。

後藤仁美さん「職場にいました。日本が無くなってしまうのではないかと思うくらいの揺れ。すごかったんだよ?すごかったんだから。揺れている最中に(当時小学3年生の)娘(長女)の名前を叫んでいたのを覚えています。娘のことが気になって気になって。家にいた夫が、長女は帰宅途中で、泣きながら帰ってきたと言っていました。」

震災前は大熊町で暮らしていた後藤さん家族。震災後は県内を転々とし、9年ほど前から家族5人で猪苗代町の一軒家で生活しています。また、5年ほど前に一時帰宅した際には、すでに慣れ親しんだ家は変わり果てていました。

後藤仁美さん「(2018年と2019年に一時帰宅したときは)家の中がぐちゃぐちゃでイノシシとか獣が入ったり。空き巣にも入られていたみたいで。扉のカギをかけていたのですが、それを壊されているのを見てショックでした」

そして、2年ほど前に自宅の解体を余儀なくされました。その一方で、避難先で開校した学校には充実感があります。

後藤仁美さん「(演劇や音楽などの)プロの方と交流する機会があって、それが子どもにはいいし、大人になって経験が役に立つと思う。学び舎ゆめの森でよかったと思う」(※学び舎ゆめの森では演出家や音楽家らを招いた演劇教育、エアレースパイロットを招いたワークショップなど多様な教育を展開。)

そして、再び町に戻る決断をした背景には、娘への母の思いがありました。