原爆を書く動機 それは”母の遺骨に起きたこと”
「おふくろが残念でね。これから楽させてやろうと思ってたんだけど本当に残念です」

取材中、中沢さんは大好きだった「おふくろさん」のエピソードを何度となく話してくれました。当時お母さんが口ずさんでいた歌を、中沢さんは今でも覚えており、街角で、料理屋で、いくつも歌っていました。
お母さんはあの日、瓦礫の下敷きとなった夫、姉、弟が死ぬのを目の前で見たといいます。

「いつも寝る前に言ってましたよ。おかあちゃん、熱いよ、熱いよっていう声がね耳の奥底で蘇ってくるって」

さらに、原爆直後にお母さんが産気づいて生まれた妹も、生後4ヶ月で亡くなりました。原爆で全てを失ったお母さんは、子供のために自分を犠牲にして働いていました。
「おふくろの背中がもう寂しくて寂しくてね。苦労ばっかりですね。あの原爆がなかったらああいうことはなかったでしょうね本当に。貧しい生活だったですよ」
川に潜ってエビを食べる日々だったといいます。

「その川エビってのは人間の死体を食って成長してるんですね。それを僕らが取って食べるわけだから、共食いの生活だったというか」
それから中沢さんは、22歳で東京に出て漫画家になりました。
ただ初めの頃は原爆の漫画は描けなかったそうです。それは、原爆症で自分も死ぬのではないか、という恐怖が強かったことや被爆者ということで差別も強かった時代だったから、ということでした。
久しぶりに広島に帰ったとき、中沢さんのことが心配だったと、原爆でも泣かなかったお母さんが泣くのを初めて見たと、中沢さんは話します。
「漫画は何回も見ていたそうだ。親はありがたいものだと思った」
生活もやっと落ち着き、東京見物させてやるからな…
本当にこれから、という時にお母さんは亡くなりました。そして火葬のとき「それ」はおこりました。

「おふくろの骨がない?白い粉が骨なのか」
「バカな。原爆でさえ、人の骨は残ったんだ」
「原爆の放射能め、おふくろの骨まで食いつぶしたのか」
「ちくしょう、俺は原爆の漫画を書いてやる。その中で原爆をたたき潰してやる」

こうして生まれたのが「はだしのゲン」です。
「もう大きなテーマはとにかく生き抜くぞと。殴られても蹴っ飛ばされても、もうとにかくしぶとくしぶとく生き抜いていくという、ゲンのたくましさを僕は描きたかったんです」
はだしのゲンのテーマ=「生き抜く」は、国内だけでなく世界中多くの人に伝わっています。
原画は、広島平和記念資料館にありますが、取材終盤、中沢さんは机の中から一枚の下書きをみせてくれました