残念でならない撤退

予想されたこととは言え、正式に撤退が決まると、本当に残念でなりません。三菱重工業は7日、国産初のジェット旅客機「三菱スペースジェット(MSJ、旧MRJ)の開発事業から撤退すると正式に発表しました。総額で1兆円もの開発費を投じ、国からも500億円の補助金をつぎ込んだ「日の丸ジェット機」構想は、6度にわたる納入期限延期の末に頓挫しました。

日の丸ジェット機が担った期待

国産旅客機の開発は、1962年にYS-11以来のことでした。半世紀以上を経て2015年に国産ジェット機が初飛行に成功した時の興奮は、今も忘れられません。
日本のものづくりの新たな展開という意味でも大きな期待を集めました。航空機は部品点数が100万点にも及び、関連産業の裾野が極めて広いからです。「自動車一本足打法」とまで言われるようになった日本の製造業にとっては、新たな可能性を拓くものでした。日本の航空会社も次期小型ジェット機として発注、支援を鮮明にしていました。
実際に、飛行機はできました。そして飛びました。作る技術はありました。それでも開発断念に追い込まれたのです。

最大の難関だった「型式証明」

最大のハードルが、商業飛行に必要不可欠な「型式証明(TC)」の取得でした。「型式証明」とは、お客を乗せて商業飛行する安全性を証明する、当局のお墨付きです。この取得に至りませんでした。三菱重工業の泉沢社長は「段取り、文書の準備、データ整備など、型式証明をとって来なかった当社には、やってみなければわからないことがあった」と述べています。後に、経験ある外国人エンジニアを採用したものの、ゴールに到達することはできませんでした。当初から、「自前主義」にこだわらず、そうした体制整備をしていれば違う結果になった可能性もあります。
また、「型式証明」取得に向けて、日本政府がより効率的な支援ができなかったのかも、私の率直な疑問です。「日の丸…」と呼ばれる割に具体的な支援が足りないことは、これまでの国策プロジェクトでも見られたことだからです。

「技術を事業にするための準備や知見」

記者会見で泉沢社長は「技術がなければ飛行できなかった。ただ、その技術を事業にするための十分な準備や知見が足りなかった」と述べています。大変重い言葉です。
今回の開発過程は、市場の大きな変化にもさらされました。2016年に、アメリカのリージョナルジェット運航に関するパイロットの労使協定が変わったのです。大手航空会社が、拠点(ハブ)から地方(スポーク)への路線をリージョナル航空会社に委託するにあたって、航空機を最大76席にするといった新たな制限が課せられたのです。これによって、それまで主力を90席サイズにしていた三菱ジェットは、より小さな70席サイズを主力機に据えるという変更を余儀なくされたのでした。
三菱スペースジェットは、一時は400機を超える受注を獲得しましたが、それでも採算ラインには遠く及びませんでした。その一方、納期延期を繰り返す間に、ライバルであるブラジルのエンブラエル社は、性能や使い易さで世界市場を席巻するに至ります。パイロットからは、三菱ジェット機は、操縦性や機内の広さなどで必ずしも優れていないという声が出ていました。また、三菱重工には、こうしたユーザーの声を聞く努力が足りないといった批判も出ていました。
泉沢社長の言葉にある、「技術を事業にするため」の、市場やユーザーへの理解が、どういう点で足りなかったのかも、改めて検証されるべきだと思います。自らの技術力を偏重、過信していたのだとしたら、その検証作業は、日本の製造業の課題に光をあてることにつながるかもしれません。

日本の新たな「ものづくり」のために

三菱重工業という企業体は、このプロジェクトの頓挫を乗り越えることができそうです。防衛費の倍増という環境の大変化で、軍用機を始めとするビジネスの拡大が容易に見込まれるからです。しかし、日本のものづくりという視点では、今回の失敗を次につなげなければ、悔やんでも悔やみきれません。それは、納税者や株主、さらには顧客に対する責任でもあります。