日本軍のスパイ視 住民虐殺も…

その先にあったのが、スパイ視による住民虐殺だ。

国頭村で生まれ育った上原一夫さん。地域で語ることがタブーとされてきた事件の現場に案内してくれた。

そこは、ザークビー(座峠)と呼ばれ、かつて住民にとって憩いの場所だった。ここから100メートルほど先の民家に身を寄せていた避難民がいた。

避難民はアメリカ軍が上陸した読谷村から、上原さんの父を頼って疎開していたが、彼らがスパイだという情報が、地元住民によってもたらされた。

上原一夫さん
「この人(地元住民)が、日本兵に“スパイがいる”とうそを言ってつないだ。スパイでもないのに。密告。そうしたら、日本兵が来て、松の木に(避難民を)下げて、日本刀でメッタ斬りして5、6名殺した」

当時、地元住民や疎開してきた人々も山の中に大勢避難していた。

日本軍がアメリカ軍への投降を禁じていた中、山を下りたことがアメリカ軍に協力しているスパイとみられたという。

上原一夫さん
「“スパイが向こうに下りてきているよ”と言って、日本兵は、確認もせずすぐ殺して。“なんで人をこんなして、命を大切にして、避難しに来た人を殺すか”と、母と親父は“絶対許せない”と言って」

相次いだ日本軍の住民へのスパイ視について、陸上自衛隊幹部学校の資料で、戦後、沖縄を調査に訪れた元陸軍参謀が、こう結論していた。

「住民で軍の活動範囲内で敵に通じたものは皆無と断じて差し支えない」
「罪のない住民をあらぬ誤解、誤った威信確保等のため『スパイ』視して射殺する等の蛮行を敢へてし、これが精鋭無比の皇軍のなれの果てかと思はせる程の事例を残している」

防諜政策の帰結としての沖縄戦の数々の事実。

そこに現れたのは、戦闘によるものだけではなく、日本軍によって住民が虐殺されるという異常な死だった。

山梨学院大学名誉教授 我部政男さん
「最終段階でいろんな事件が起こりますが、日本の国家が仕向けてきた方向の最終的な結論として起こっているものであって、日本国家そのものが推進した、結論なんですね。日本国家そのものが目指したもののね」

それから81年、情報戦略の司令塔を担う「国家情報会議設置法」が成立した。

政府は、7月にも各省庁の情報を一元的に集約・分析する実務機関「国家情報局」を立ち上げ、その先にスパイ防止関連法制の制定を目指す。

我部さんは、歴史の事実を指摘する。

山梨学院大学名誉教授 我部政男さん
「戦争するときに政府内部の意見が分裂しては戦争できない。それを統合するために情報局を作った。要するに独裁政治の始まりなんですよ。意見がバラバラでは戦争できない。戦争するための方法が内閣における情報のコントロール、単一化なんです」

この国には、戦前、「軍機保護法」「国防保安法」と「内閣情報局」によって国家が国民を統制した歴史がある。

山梨学院大学名誉教授 我部政男さん
「戦前期の研究をじっくり固めておかないと、戦後この80年の経過の中でちょっと忘れかけてしまってるところが多いんじゃないのかな」

戦前の国防保安法についての陸軍の説明には、こんな一節がある。

「一個人の生命よりも国家の生命を重しと見る考を強調するものであります」