「自分の言葉が偽物に思えた」。

カンボジアの青年からの問いに答えられなかった悔しさが、女性を動かしました。

戦後81年、被爆者の平均年齢が86歳を超える中、凄惨な記憶を“自分の声”で語り継ぐ被爆体験伝承者の思いに迫ります。

■「黒い絵の具を塗りたくったように」 欠けた地蔵の前で語る惨禍

8月6日の広島原爆の日。
愛媛県松山市の寺院では「おこりじぞう」の供養祭が営まれました。

こちらでは、広島で被爆し、がれきの下敷きになって一部が欠けるなどした、7体の地蔵がまつられています。

「おこりじぞう」はそのうちの1体で、頭を失った地蔵に新しい顔を取り付けたところ、怒っているように見えたことから、そう名づけられました。

この供養祭で被爆体験を語った松野厚子さん(81)。
広島県三次市出身で2024年、息子が暮らす松山市に移住しました。

「きょうは笠岡貞江さんの被爆体験をお話しします」

語ったのは当時12歳で被爆し、両親を失った笠岡貞江さんの体験でした。

松野さんは、広島市の「被爆体験伝承者」です。
被爆の実相や平和への思いを後世に残そうと、広島市が2012年度から始めた養成事業で、被爆者の体験や思いを本人から受け継いで伝える人が、現在約270人活動しているということです。

「洗濯物を外に干し終えて、家に入ったちょうどその時です。東向きの部屋の幅2.5メートルほどの窓ガラスがぴかっと光りました。貞江さんはとっさに、日ごろ訓練をしていた目と耳を手で塞いでかがみました。貞江さんにはこの時の光が、目をつむっていても、目に突き刺さったように焼きついているといいます」

1945年8月6日午前8時15分。

広島に原爆が落とされたあの日、笠岡さんの網膜に焼き付いた凄惨な記憶を、松野さんがまるで自らの体験のように語り継ぎます。

笠岡さんの両親も爆心地近くで被爆していて、父親と再会できたのは原爆投下の翌日でした。

「大ヤケドで炭のようにひび割れて真っ黒。黒の絵具をチューブからそのまま塗りたくったように、真っ黒で光っていました。貞江さんは、その人が誰かも分からず、生きている人とは思えなかったそうです」

原爆によって、笠岡さんの両親をはじめ、当時の広島市の人口(約35万人)の4割にあたる約14万人が、その年の末までに亡くなりました。

「一発の原子爆弾で多くの人たちが犠牲になりました。焼け残った広島の街では、お骨もその人が生きていた証も焼き尽くされました」

松野さんは最後に笠岡さんの思いを伝えました。

「戦争は絶対いけん。愛の心を持った人になってほしいという貞江さんの平和への思いが、皆さんの心に届き多くの人とつながっていくことを願っています」