「責任を問うこと」と「背景を理解すること」は両立する

もちろん、ACEを理由に、すべての行為が免責されるわけではない。

病気や依存症については、最終的に本人が治療や健全な生活を維持していくことを求められる。また、犯罪を犯した場合には、どれほど過酷な成育歴があったとしても、司法の場では責任が問われる。

たとえば、記憶に新しい山上徹也被告の事件では、多くの人が、その成育歴の過酷さに衝撃を受けた。宗教二世問題は広く議論された一方で、司法の場では、当然ながら重大犯罪の被告としての個人責任が問われている。

しかし、「責任を問うこと」と、「なぜその人がそこに至ったのか」を理解しようとすることは、本来、矛盾しないはずだ。

私たちはしばしば、「背景を理解すること」を、「加害を正当化すること」と混同してしまう。だが、背景を理解しようとすることは、同じような苦しみを次世代に繰り返さないために必要な視点でもある。

「閉じた家庭」をどう防ぐか

ACE問題を考えるとき、近年、筆者が強く感じているのは、「家庭を開く」という視点の重要性である。

虐待やネグレクト、家庭内暴力の多くは、「閉じられた空間」の中で深刻化する。外から見えず、他者が介入できず、「家庭のことだから」と扱われることで、問題が長期化してしまうのである。

日本社会では長らく、「家庭は私的領域であり、外部が踏み込みすぎるべきではない」という感覚が強かった。この公私の分離こそが、「近代家族」(近代社会に適合した、夫婦とその子どもから成る情緒的結びつきの強い核家族)の主要な特徴でもある。

もちろん、家庭のプライバシーは大切である。しかしその一方で、「家庭の中で起きていることを外から見えなくすること」が、子どもの孤立や人権侵害につながってきた面も否定できない。実際、ACEサバイバーの語りには、「誰にも気づいてもらえなかった」「家の外では“普通の家庭”に見えていた」という言葉が少なくない。

だからこそ、家庭を孤立させない社会の仕組みが必要なのだ。

たとえば、学校、保育、地域、医療、福祉など、多様な大人との接点を子どもや保護者が努力せずとももてるようにすること。親だけにケア責任を集中させず、「子育ては社会全体で支えるもの」という考えを制度面で保障すること。

それは、家庭を監視する社会をつくることではない。むしろ、「家庭だけで抱え込まなくてよい社会」をつくるということである。

たとえば、フランスのエデュケーター(家庭教育支援)は、家庭の中で問題が起こる前から国家資格をもった専門職が家庭の中に入り込み、家族にとっての頼れる第三者を目指す取り組みとして参考になろう。すでに日本の学校で配置されているスクールカウンセラーやスクールソーシャルワーカーができることも、まだまだあるはずだ。