「母に抱かれたまま亡くなっていた」写真も遺骨もない妹

極限の状況の中、幼子2人を抱えていた母・恭子さん。終戦翌年、沖縄へ帰ることを決意します。

1歳だった節子さんを、母はショールにくるみ、祖国へ向かいます。

当時住んでいたハルビンから鉄道で大連へ、その後船で京都の舞鶴へ行き、そこから沖縄に戻るというルートです。

稲福昌子さん
「妹は衰弱して、黒いストールに包んで、母は抱っこして。だんだん動きがなくなり、動けなくなり、母に抱かれたまま亡くなっていた」

小川彩佳キャスター
「このショールを見ると、どのような思いがこみ上げますか」

稲福昌子さん
「節ちゃんのぬくもりがあるのかなとか。節ちゃんを異国の地に置いて、次は私がかぶって。『私が亡くなったら必ず棺に入れてね』と家族に言っている」

栄養失調で息を引き取った妹・節子さんの亡き骸は、汽車が途中停車した際、その地に埋葬するほかありませんでした。

写真すらない中、遺骨の代わりに持ち帰ったものがあります。

稲福昌子さん
「線路際に穴を掘って埋葬して。母はその辺にある石ころを拾い、風呂敷に大事に抱えて持ってきたと聞いた。その時の母の気持ちを考えると、今まで抱っこしていた子どもを埋葬して、自分と私と2人は沖縄に帰らないといけない、この残酷な運命を」

「生きた証を残したい」――母が望み続けた平和の礎への刻銘

節子さんの最期について、母からきちんと聞かされたのは昌子さんが中学生になってから。それまで辛くて伝えられなかったのでは、と昌子さんは考えています。

家庭では父がシベリアから帰国。弟も生まれていましたが、節子さんが“生きた証”を残したいとの母の思いは強く、平和の礎への刻銘を沖縄県に申請。

しかし当時の状況や死因を証明することができず、認められませんでした。

稲福昌子さん
「とっても残念がっていました。申請の条件に合わない、それで却下されたという話を聞いた」

そして母76歳、父は89歳で他界。両親の思いを引き継いだのが、昌子さんでした。

稲福昌子さん
「戦後80年になって、本当に節ちゃんが私の心を揺さぶって。『お姉さん助けて、私の生きた証を証明してくれ』と。その責任を果たす義務があるんじゃないかと、そのためにまだ80まで生きているんだと」

2025年7月、当時の状況を見ていた知人の証言などを資料に加え申請。戦後80年が過ぎて、ようやく刻銘が決まったのです。