「不運の名跡」から「角界の一大勢力」へ

大相撲 双葉山の土俵入り

一方の双葉山は言わずとしれた「不滅の69連勝」の偉業を持つ、相撲界最高のスターだ。幕内優勝12回、5場所連続を含む全勝優勝8回も記録した。現役時代から年寄を兼務する「二枚監礼」が認められていたため、土俵に上がりながら「双葉山道場」を開いて指導も行っていた。

そして終戦の年、1945(昭和20)年に33歳で現役を引退する際に襲名したのが年寄「時津風」だった。時津風の名跡自体は江戸時代から始まり、昭和初期まで存続した大阪相撲に起源を持つ由緒あるものだ。だが、双葉山の前は弟子がなかなか育たず、経営的に苦しく継承者が部屋をたたんでしまうこともあったと記録に残る。当時は「不運の名跡」と呼ばれており、「大横綱がわざわざ、そんな曰くのある名跡を継がなくても」の声が出たといわれている。

だが、双葉山は「名跡が人を左右するわけではない。それなら自分がその名跡を立派にする」と話して、周囲の心配をよそに襲名したという。その後は相撲協会の第3代の理事長として11年間務め、それまでの一門別の対戦を廃止し、現在まで続く部屋別総当たり制を導入。力士の月給制度も確立するなど、改革を断行した。また、部屋の師匠としては横綱鏡里、大関では大内山、北葉山、豊山を育て、時津風部屋を名門に押し上げた。他の部屋も加えて現在も続く時津風一門を形成。角界の一大勢力に育て上げた。

「稽古場は本場所のように、本場所は稽古場のように」との言葉を残した双葉山の稽古は、指導者になっても変わらなかったという。後援者として、朝稽古に通った故・中原伸之元日銀審議委員によると、部屋の稽古中は私語が禁止され、すさまじい緊張感と静寂の中で番数が進んだようだ。師匠の口数少なく、じっと稽古を見つめるだけ。生前の中原氏は「時津風部屋は教えるのではなく、力士自らに考えさせる稽古。それを徹底させていた。双葉山はよく『言葉で教えて強くなるなら、誰でも横綱になる』と言っていたよ」と話してくれた。そんな迫力に押されて他の部屋の力士は出稽古に来ても委縮するといわれたが、その中でいつも質の高い稽古をしていたのが、大横綱大鵬と競い合っていた伊勢ノ海部屋の横綱柏戸だったという。