「ミスタープロ野球」と「相撲の神様」。スポーツ界で抜群の人気と存在感を示した巨人終身名誉監督の長嶋茂雄氏(2025年死去)と大横綱双葉山(1968年死去)。「動」と「静」の2人の巨星には、意外な共通点があった。それはジンクスを信じず、自らの力で悪評を高評価に変えてしまう気持ちの強さと飛び抜けた実力だ。

球界の期待を担い「『3』と『3』で『燦々と輝く』」

通算2471安打、444本塁打、1522打点。首位打者が6回、本塁打王は2回、打点王5回。17年間の現役生活でベストナインからは一度も外れたことなく17年連続。最優秀選手(MVP)も5回ある。球界初の天覧試合でのサヨナラ本塁打を始め、「記録よりも記憶」に残る現役時代を過ごした長嶋氏の代名詞と言えば、誰もが憧れた「背番号3」だ。2度の監督時代も、最後の2年間はその巨人の永久欠番を背負っていた。

だが、引退の翌年から最初の監督時代を送った6年間、長嶋氏の背番号は「90」だった。「3番、サード、長嶋ですから」と本人は笑っていたが、「3」にまつわる数字で「3+3+3」に「0」を付けた、と言われた。

13年後の1993年、2度目の指揮を執ることになり、グラウンドに戻ってきたミスターの背には「33」があった。普通なら現役時代の入団が1958(昭和33)年だし、「3」を二つ並べて「90」と違う番号で選んだ、ということで済むところではある。ところが当時、関係者や事情通らは当初、あまり良い顔をしていなかった。巨人の球団内ではこの番号は「『3』と『3』で散々、苦労する」と言われて、地味で縁起が良くない、と思われていたからだ。

長嶋氏の現役終盤からこの番号を付けていた左の好打者がいた。しかし、彼が外野手で、その頃の巨人はレフト高田繁、センター柴田勲、ライト末次利光と不動の布陣が揃っており、なかなかレギュラーで出場出来ない。結局、代打として貴重な存在ではあったが、主力とは呼ばれなかった。

その後は、主に投手が背負った。甲子園を沸かせた往年のスターが巨人に移籍してきたが、一軍登板がないまま、1年で阪神へ。続いて期待の若手が2人もいたが、1軍勝利がなく終わった。そして、巨人だけでなく、球界全体の期待を担って長嶋氏の再登板が決まった。その際、そんな良くない評判を知った本人が言ったという。「それなら僕が『33』を『3』と『3』で『燦々と輝く』にするよ」。まさに「球界の太陽」でもあった長嶋氏ならではの発想だ。この年、その言葉から財界関係者による巨人の公式後援組織である「燦燦会」が発足した。

そして、その宣言通り、94年には日本シリーズで西武を4勝2敗で破り、監督として悲願だった日本一を達成する。監督通算では15シーズンでセ・リーグ優勝5回、日本一2回だった。

長嶋氏の後の巨人の「33」と言えば、本塁打王と打点王のタイトルを取った後に広島からFA移籍してきた江藤智や、「アジアの大砲」と呼ばれた李承燁、楽天の球団初の日本一に貢献したマギーらが背負い、大型選手や外国人選手のイメージも出来た。ちなみに今季は、ドラフト5位で沖縄電力から入団した小濱佑斗内野手が付けている。