「広島ですか…。生まれは長崎なので、なかなか故郷とは言えないかもしれないですけど、長崎生まれ・広島育ちだと思いますし、広島は本当に第2の故郷としてホームタウンっていう自分の帰るところかなっていう感覚ではいます」

― 広島での経験は、例えばワールドカップであるとか、代表監督で生かされている部分はある?

「広島で生活するようになって、人としても、サッカー選手としても、指導者としてもいろんな教育を受けさせていただいて、経験させてきてもらった中で今の自分があると思いますので、監督としても自分がつくられた街だと思っていますので、全てが生きているかなと思います」

当時の映像と、当時を知る人の話を見てもらいました。

森保監督
「利重さんじゃないですか…」

「BAR GAJA」店主の利重忍さんは、サンフレッチェ広島の前身・マツダサッカークラブで同期入団でした。

森保監督
「ははは。小僧ですね。懐かしい」

利重忍さん
「決してボールリフティングがうまいとか、足がむちゃくちゃ速いというわけではないが、そのときそのときの判断のスピードが早い」

当時のオフト監督のときに開花します。

RCCに残る30年前の森保さんの映像(1992年9月)です。

森保監督
「若っ!」

森保監督 1992年当時
― サッカーの一番の魅力は?
「チームプレーですよね。誰かが誰かを助ける」

こちらは、レアなマツダ入部当時の森保監督です。

利重忍さん
「入部したときは、パンチパーマで寮に入ってきましたけど…」

森保監督
「パンチパーマじゃないよう」

重忍さん
― なぜ、変わった?
「サッカーをまじめにやらなきゃって思った瞬間にあの髪型に決まったんだと思います」

森保監督
「応援はありがたいんですけど、自分の映像を見ると、ちょっと恥ずかしすぎますね」

― 以前はパンチパーマ気味だったんですか?
「高校卒業して、確かに初めてパーマをかけたので、強めになっていました」

― 利重さんもおっしゃってましたが、とにかく判断の早い選手だった?
「何で勝負できるかっていうので、判断やスピードで勝負しないと、なかなか身体能力の高い選手・能力の高い選手たちには勝てないなっていうのはあったのかなと思います」

― 代表監督をされていて、影響を受けた監督は?

「全ての監督に影響を受けた。例えばオフトさんであれば、練習もめちゃくちゃきついんですよ。最後、もうぶっ倒れるぐらいのきつさなんですけど、でも楽しいんですよね。嫌だと全く思わないんですよ。監督自身もいつも笑ってるし」

今、代表の監督もやらせていただいてる中でも好きなことをやっているっていうことを忘れずにプレーしてほしいなという思いを持って働きかけはしています」

中でもマツダサッカークラブへの入部を促した今西和男 総監督による影響は大きいと話します。

森保監督
「広島に出てきて、今西さんに教育していただいたことを今、実践しているという感じですね。メモすることも、まずはサッカー日誌を付ける。日々の成果と課題を整理しながら次に向かっていくということは、今も試合中にもやっているメモですし」